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礼拝メッセージより
盲人
「人々がひとりの盲人をイエスのところに連れてきて、触れていただきたいと願った」。この盲人は人々に連れてこられた。自分から来たのではない。多分自分ひとりでは来れなかった。
「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れだし」た。イエスは自分が手を引っ張っていっていやしの場まで自分で連れていった。そして手を当てた。
どうして障害があるのか。自分自身の罪か、先祖の罪か。弟子たちがイエスに聞いたことがヨハネによる福音書の9章に書いてある。結局弟子たちもそういう障害は罪の結果だと思っていたということなのだろう。
障害者をまわりは差別し、あるいは憐れみと軽蔑の対象として見ていた。障害は罪の結果だと思っていた。そしてそういう人達は社会のまっとうな一員とはみていなかったらしい。また家族にとってもそういう人はお荷物だったのかも。障害者がいることを知られることを嫌うということを聞く。障害者がいることを家族が一所懸命に隠すという話を聞く。それは障害者を持つ家族のことをそれだけ苦しめてきた、差別してきたということの証明でもあるように思う。今は少しは違ってきたかもしれない。しかし相変わらず障害者を区別する。養護学校とか、特殊学級なんてのがある。区別することから差別が起こるんだ、という人もいる。多分そうなんだ。障害なんて言い方自体が差別を含んでいるのかもしれない。このことをどう考えたらいいのだろうか。
弟子たちが聞いた時のイエスの返事は、神の業が現れるためだ、ということだった。なんというすごいことを言うんだろうか、と思う。私たちも障害を持つことを何かの因果だという風に考えているのではないかと思う。障害を持つ子どもが生まれてきた時には誰でも、どうしてこういう子が産まれてくるのかと悩むということを聞く。誰の罪なのか、と弟子たちは聞いたがそれは全く私たちの声でもあると思う。しかしイエス・キリストは、誰の罪でもない、ただ神の業が現れるためだと言う。
顔を上げて
イエスは盲人の「両方の目」に唾をつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねた。すると盲人は見えるようになって、人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。と答えた。この「見えるようになって」という言葉は顔を上げて、とも訳せる言葉だそうだ。口語訳は「すると彼は顔を上げて言った」と訳している。きっと盲人は下の方ばかり向いていたのではないか。とにかくこの時彼は顔を上げて見た。何かを必死に見ようとしている。神経を集中して見ようとしている。顔を上げて前を見つめる人生がこの時始まったということかもしれない。
最初の時は人が木のように、おぼろげに見えていたのが、イエスがもう一度目の上に両手をあてると、すべてのものがはっきり見えはじめた。
最初にまじまじと見つめたのはイエスだったろう。彼は顔をあげてまじまじとイエスを見つめた。イエスによって見えるようにしてもらった目で。イエスは「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
そもそもこの盲人は人々が連れて来たと書かれている。そして目が見えるようになってからは、この村に入ってはいけないと言われて家に帰ったと書かれている。ということはこの人はこの村の人ではなく別の村の人ということらしい。わざわざ別の村から連れてこられたということはどういうことなのか。
イエスがいろんな人を癒すという評判を聞いた人たちが、イエスがどんな風に癒すのか見てみたくなって連れてきたということかな。だからイエスは見せ物にしたくなくてこの人をわざわざ村の外へ連れ出したのかな。
弟子たち
イエスは二度も手を当てた。二度といわず何度でも手を当ててもらったほうがいいような者がいる。その代表が弟子たち。
弟子たちはイエスのうわさが広がり、イエスの人気が出てくると、イエスに従うことを喜び、誇りに思っていたらしい。その割にはイエスのことがわかっていない、見えていないようだそれはイエスをはっきり見るため、イエスが何を考えているかをはっきり知るため、弟子たちこそもう一度イエスによって手を当ててもらわねばならないようだ。
弟子たちは、お師匠の人気が出てくるとそれだけ自分たちも偉くなったような気分になったらしい。だれが一番偉いか、ともめていたことも書かれている。他の人よりも少しでも上に立ちたい、というのは人間の本性なんだろうか。人よりもいい成績をとり、少しでも知識を多くして、また少しでも金持ちになり、有名になり、いわゆる偉くなりたいと思う。人と比べることで自分がいいとか、悪いとか判断する。生まれながらの性質なのか、あるいはもって生まれた罪なのか。
自分を周りの人と比べることをしなければ、人生はどんなに楽しいだろうと思う。自分は自分なんだから、自分らしく生きればそれでいいはずなのに、どうしてか、なかなかそうできない。
僕自身も小さい時から親からも親戚の大人からも、あそこの子はよくしゃべるのにお前はどうしてしゃべらないのかといつも言われていた。無口だ、引っ込み思案だといつも言われていた。
何かにつけて周りと比べられていて、気がついたらいつも周りと自分とを比較する癖がついていた。なんとか人よりも高くありたい、逆にいえば、低くいたくない、そうしないと認めてもらえないような気持ちがある。いつも周りより上か下かということばかり考えていて一喜一憂していた。弟子たちが誰が一番偉いかでもめた気持ちもよく分かるような気がする。
手当て
ところがイエスは人の上に立つような道を歩いていたのではない。イエスは人に仕える道を歩んでいた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」なんてことも言っている。
弟子たちはそんなイエスの姿がよく見えていなかったようだ。イエスの姿がしっかりと見えるようになるために、弟子たちこそイエスに手をあててもらわねばならないように思う。
では自分はどうなのか、イエスの姿がしっかりと見えているのだろうか、ちゃんと見えているだろうかと思うと、弟子たちと同じようにまるで見えていないような気がする。弟子たちと同じように自分と周りを比べてばかりだ。イエスの進む姿、その後ろ姿をすっかりと見失ってしまっているような気がする。
イエスは人に仕えるために下へ下へと進んでいる。しかし自分は人よりも上へ上へと目指している。私こそこの盲人と同じように手を当ててもらわねばならないように思う。イエスの真の姿が見えるようにしてもらわねばならないように思う。
イエスのことをどれほど見ているか、どれほど真剣に見ているのか。ぼんやりとしか見ていないのではないか。この盲人は一度手を置いて貰ってから人が木のように見えると言って、もう一度手を当ててもらってはっきり見えるようにしてもらっている。自分こそはっきり見えるように、イエスに手を当ててもらわねばならないようだ。
手を引いて
今回気になったのは、イエスが盲人の手を取って村の外に連れ出したということだ。盲人はイエスに手を引かれて、つまりイエスと手を繋いで村の外に行ったということだろう。その光景をイメージするとすごく面白いというか微笑ましい気がしている。
何も見えていない自分もイエスが手を引いてくれていって欲しいと思う。きっと引いていってくれているんだろうと思う。自分の目を見えるようにしてくれる、その場所までイエスは自分の手を引いていってくれているんだろうと勝手に思って、ちょっと嬉しくなっている。