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礼拝メッセージより
空腹
群衆に食べ物を与える。6章30節以下にもある。その時は五千人。今度は四千人。よほど食べ物のことを気にしている。腹が減っては戦が出来ぬ、てやつか。祈っても何の腹の足しにもならん、その通り。イエスは自分で食事を用意する。
イエスはいろんな人と一緒に食事をした。どんな人とも。同じ釜の飯を食った。そのことはとても大切なことらしい。
イエスは弟子たちに向かって群衆がかわいそうだ、と言う。でも弟子たちは相変わらず、前と同じく「こんな人里離れたところでどこからパンを手に入れろと?」と言う。イエスは「パンは何個ある?」と聞くと弟子たちは「7つある」と答える。
イエスはまたもこの少しのパンを祝福して多くの人の腹を満たす。そして7つの籠のおまけつきだった。
5000人を満腹させた時とそっくりの話し。それなのに弟子たちはそんなことがまるでなかったかのような反応だ。
パン屑
6章では5千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させて、残ったパン屑と魚が12籠だった。8章では4千人を七つのパンで満腹させて残ったパン屑が7籠だったと書いてある。
同じような出来事が2回あったということかもしれないけれど、ひとつの出来事が言い伝えられるうちに二通りになって、マルコは二通りの話しを受け取ったということかなと思う。
残ったパン屑が12籠とか7籠って、聖書ではどちらも完全数と言われる数字だけれどなんだろうかと思っていたら、ある人が説教で面白いことを書いていた。
使徒言行録6章に、これはイエスの十字架よりしばらく後のことだけれど、弟子の数が増えてきた時にギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に日々の分配のことで苦情が出たという話しがある。そこで12弟子は、自分達が神の言葉をないがしろにして食事の世話をするのは好ましくないとして、霊と知恵に満ちた評判の良い7人を選んで彼らに仕事を任せよう、そして自分達は祈りと御言葉の奉仕に専念することにすると言った、という話しだ。
日々の雑用を担当するために、ステファノやフィリポなど7人を選んだというような話しになっているけれど、実際にはこの7人は説教をしたり聖書の解きあかしをしたと書かれている。実は教会内でヘブライ語を話すグループとギリシャ語を話すグループの対立があって、12弟子がヘブライ語を話すグループの代表であったのに対して、ギリシャ語を話すグループの代表として7人が選ばれたということのようだ。
12籠と7籠というのはその12弟子と7人のことではないかと件の説教では言っていた。残ったパン屑、それはイエスから託された言わば命のパンということでもあると思うけれど、それを12弟子がリーダーとなっていたヘブライ語を話すグループに託した、そして7人がリーダーとなっているギリシャ語を話すグループにも託したということではないかと言っていた。
また5000人の時はガリラヤ湖の西岸での出来事で、そこはユダヤ人たちの住む地域だったそうで、4000人の時には対岸のガリラヤ湖東岸で、そこは異邦人たちの住む地域だそうだ。イエスはユダヤ人たちも異邦人たちも共に養い満腹させる方だということも伝えているようだ。
当時教会内ではユダヤ人たちは異邦人でも割礼を受けるべきだと主張し、異邦人たちはその必要はないと主張するなど、いろんな意見の相違があったり対立するようなこともあったようだ。けれども、イエスはどちらにも命のパンを与え満腹にし、残ったパン屑をそれぞれの指導者に託したということをこの物語は告げているということのような気がしている。だからマルコによる福音書やマタイによる福音書では、同じような内容の話しを敢えて二つ載せているということなのではないかと思う。
しるし
その後イエスと弟子たちは対岸に渡るとファリサイ派が登場し、イエスにしるしを求めた。しかしイエスは与えられない、と言う。
ファリサイ派が求めていたしるしとはどんなものだったのだろう。どういうしるしがあれば満足できたんだろう。
パン種
向こう岸へ渡る途中かな、イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言った。弟子たちは「パン」と聞いた途端、今自分たちがパンを持っていないからだ、と論じ合ったと書かれている。しかし突然ファリサイ派とヘロデのパン種に気を付けろなんて言われても分からないよなと思う。
イエスは弟子たちが悟らないのを見て、具体的な事を思い出させる。5つのパンと5千人と12の籠。7つのパンと4千人と7つの籠。ひとつひとつを思い出させたようだ。
そして最後に、まだ悟らないのか、と言ったという。弟子たちはどう答えたんだろうか。
ファリサイ派は律法を守ることで神と人間の正常な関係を持つことが出来ると考えていたようで、律法を熱心に研究して厳格に実行しようとする人たちだったようだ。そして律法を守る自分達は義人であると誇り、律法を守れない守らない人たちは罪人であると見下し差別していたようだ。
ヘロデとは、当時ローマ帝国から任命されたガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスのことのようだ。彼は自分の権力を守るため、また自分の欲望を満たすために、自分に反対するものを殺害することも躊躇わない人だったようだ。
ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気を付けるとは、そんな人間にならないように気を付けろということなんだろうと思う。
でもなんだかしっくりこない。ファリサイ派とヘロデのパン種に気を付けるということと、残ったパン屑の籠の数を思い出させることと、どういう関係があるんだろうか。籠の数よりファリサイ派やヘロデのどんな風におかしいのかということを教えた方が良かったんじゃないかと思う。
ふくらし粉
そう思いつつ、パン種があるとパンはどんどん膨らんでいくということを言いたかったのかなという気もしている。ファリサイ派のパン種やヘロデのパン種、つまり人を見下して安心するような思いや、誰かを傷つけても自分の欲望を満たしたいというような思い、そんな小さなパン種があると、それはやがてどんどん膨らんでいってしまいかねないということを言いたいのかなと思った。
そんなパン種を取り除ければいいけれど、自分のことで考えると取り除けそうにもない。取り除けないけれど、放っておけばどんどん膨らんでしまうから、膨らまないように気を付けろと言っているような気がしている。
ここからは勝手な解釈だけれど、私たちはファリサイ派やヘロデのパン種も持っているけれど、イエスのパン種も持っているのだと思う。そのパン種によってイエスはパンをどんどん大きくしていった。そんなパン種をあなたたちはもうもらっている、だからファリサイ派やヘロデのパン種を膨らませるのではなく、イエスのパン種を膨らませなさい、いやイエスに膨らませてもらいなさい、と言われているような気になっている。イエスから貰った愛と赦しというパン種を大きく膨らませて貰いなさい、そう言われているような気がしている。