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礼拝メッセージより
お疲れ?
イエスってどんな人だったんだろう。イエスは救い主なんだから、完全無欠で、いつも正しくて、いつも平穏で柔和でいて、疲れることもなく、イライラすることもなかったかのようなことを勝手に思っているけれど、実際はどうだったんだろうか。苦しんで祈ったようなことも書かれているけれど、やっぱり人間として生きたわけで、だとすると疲れることもイライラすることもあったかもしれないなあと思う。
今日はイエスがティルスに行った時の話しだ。ティスルというのはイスラエルの北に位置するフェニキアという地方にある、地中海に面する港湾都市だそうだ。シリア・フェニキアという地名になっているが、フェニキアという土地がアフリカにもあって、そこと区別するためにシリアのフェニキアということでシリア・フェニキアと言っていたそうだ。
ユダヤ人から見ると異邦人の土地にわざわざ行ったようだ。異邦人とはただ単に外国人というだけではなく、自分たち清い人間とは違う汚れた人間と思っていたらしい。だから異邦人の住む異邦の地へわざわざ行くユダヤ人はいなかったようだ。
イエスはガリラヤを離れてティルスの地方へと行った。そこではある家に入り誰にも知られたくないと思っていたと書かれている。
それまで大勢の群衆がついてきたり、エルサレムからファリサイ派や律法学者たちがやってきて議論をふっかけられたりしていたことが書かれている。そんな人たちと距離を取りたくて、ユダヤ人たちが嫌っている異邦人たちの土地へとやってきたということではないかと思う。「誰にも知られたくないと思っておられた」と書かれているようにひとりになりたかったのかなと思う。だいぶお疲れだったのかな。
けれども人々に気づかれてしまった。
イエスの評判はすでにその地方にも知れ渡っていたようだ。3章7-8節に「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ユルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そこに集まって来た。」と書かれている。このティルスやシドンというのはシリア・フェニキア地方の町の名前だ。この地方にもイエスの噂は知れ渡っていたのだろう。一人になりたくても、ティルスではなかなかそうなれない状況だったのだろう。
シリア・フェニキアの女
イエスのもとに汚れた霊につかれた娘を持つ女がやってきた。この女はすぐに聞きつけてきたと書いてある。
そして娘から悪霊を追い出してください、と頼んだ。当時は精神的な病気は悪霊の仕業によるものだと考えられていたそうで、そういう病気だったのだろう。イエスがやってきたことを知ったこの女性はイエスの足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
ところがイエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」なんてことをいう。ユダヤ人のものを取り上げて異邦人に与えてはいけない、ということを言っているようだ。
これに対してこの女の人は「主よ、しかし食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」と応えた。
イエスは「それほど言うなら、よろしい」と言った。「その言葉で十分である」という訳もある。原文では「その言葉の故に行きなさい」となっているそうだ。そして家に帰ると娘から悪霊は出てしまっていた、病気は治っていたという話しだ。
イエス
イエスはどんな気持ちで子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない、と言ったのだろうかと思う。煩わしくて追い返したかったのだろうか。疲れてて面倒くさかったのだろうか。またこの言葉のように異邦人のことまで面倒は見れないと思っていたんだろうか。それともこの女の人の信仰の度合いを知りたかったのだろうか、どれほど信じているかテストしたんだろうか。
同じ内容の話しがマタイによる福音書15章21節以下にも載っている。そこではイエスの最後の言葉は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」となっている。
この女性はイエスに全幅の信頼を置いていたから、イエスなら癒してくれると信じていたから、子犬もパン屑をもらえると応えたのだ、そしてイエスはこの女性の信仰を誉めたと言うふうに、いかにもこの女性の信仰の度合いをテストしたような話しになっている。
そもそもイエスは他のユダヤ人たちと同じように、異邦人を下に見ていたのだろうか。ユダヤ人の救いが第一で、異邦人の救いは二の次という考えだったのだろうか。今日の箇所はぱっと見、異邦人を下に見ているかのように見えるけれどどうなんだろうか。
イエスは完全無欠で、誰も差別したりするはずがないので、異邦人だからと言って下に見るようなことはないと勝手に思っている。だから子供達のパンを取って子犬にやってはいけないという言葉も、単純に異邦人を下に見ているのではなくて、何か別の意味合いがあるんじゃないか、それこそ女性の信仰の度合いを確かめようとしたんじゃないかと思っていた。
でもユダヤ教社会の中で生きてきていて、異邦人を下に見るようにずっと教えられてきていたら、そう思っていたとしても不思議ではないという気もする。それまでそう思っていて、この女性との出会いが、そんな異邦人蔑視の考えを改めさせたのだとしたら、すごい出会いだったということになる。
でもやっぱりイエスには異邦人を下に見るような考えは持っていて欲しくないという気持ちが強い。というかそんな差別的な目を持っているイエスは許したくないという気持ちもある。疲れていたとしても面倒だなんて思って欲しくないし、どんな人のどんな願いでも、兎に角受け止めて欲しいと思っているけれど、勝手な思い込みなのかな。
切なる思い
イエスがどんな気持ちで、どんな思いで、子供達のパンを子犬にやってはいけないと言ったのかはよく分からないというのが正直なところだけれど、それに対するこの女性の「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」という言葉は、とても切実な思いだったんだろうなと思う。
涙ながらに、何とかしてください、もう苦しくて苦しくて仕方ないんです、というような気持ちでいたんじゃないかと思う。
子犬もパン屑はいただきますと言うのは、余裕を持って機転を利かせてユーモアを交えて答えたように思っていたけれど、そんな余裕はなくて藁をもつかむような思いで、子犬だってパン屑をもらえるじゃないですか、と応えたんじゃないかと思う。
そしてイエスは、この女性の信仰が立派で合格だったからというようなことではなくて、この女性の苦しみを見たから、切実な思いを感じたから、その思いに共感したからこの出来事が起こったのではないかと思う。
だからと言って、イエスに祈ったら病気が治るかというと現実にはそうとは限らない。そうならいことの方が遥かに多いだろう。
祈れば必ず叶うなんて信じることもできない、そんな篤い信仰も無い、でも兎に角こんなに苦しい、どうか助けて欲しい、そう言うしか無いのが私たちの現状ではないかと思う。
しかしそんな苦しみの中にある私たちをイエスは見つめてくれている、私たちの切実な思いをイエスは知ってくれている、聖書はそのことを伝えてくれているように思う。
会話を楽しむ
メッセージは以上で終わる予定だったけれど、礼拝の間際になって、イエスは会話を楽しんでいるんではないかという気がしてきた。女性との会話を楽しみたかったからこんな話しをしたんじゃないかという気がしてきた。
女性は切羽詰まってイエスのところへ来ていたと思うけれど、イエスは、ギリシア人がユダヤ人にそんなことをお願いしても、普通は子供達のパンを子犬にやってはいけないなんてことを言われかねないんじゃないのかい、というような気持ちで言ったような気がしてきた。つまり女性の要求をつっぱねたいというのではなく、そこで少しでも会話をしたい、交流を持ちたいという気持ちだったのかなと思った。
イエスは娘の助けを要求されてただそれに応えるだけではなく、癒す側と癒される側という関係ではなく、人間的な交わりを持ちたかったんじゃないかという気がしてきた。
大変だったね、でも大丈夫だから、安心していきなさい、そう言ったんじゃないかと思う。
それこそ勝手な思い込みかもしれないけれど。