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礼拝メッセージより
常識
昔会社に入ってすぐに研修があって、その中の一つに世間の常識を勉強するようなのがあった。一つ覚えているのが、結婚式なんかの招待状の返事の書き方というのがあった。誰々行、の行きを消して様にするだとか、御芳名は氏名に直すとか、そういうことが常識だといったようなことを聞いた。ところが自分の結婚式の時に送り返してきた招待状の中にはそうなっていない非常識な人が大勢いた。神学部の教授の中にも非常識な人がかなりいた。研修でならったりすると、これは知らない奴はとんでもないやつと思ったりしていたが、そうでもないんだ、と思うようになった。
よく冠婚葬祭に関することを、この時はこうしてああして、と言ったり、本に書いてあったりする。そういう人の話を聞いていると、その道からはずれる者は非常識な人間のような言い方をするが、本当にそうなんだろうか。これが常識です、なんてことを言ったりしているが、殆どの人が知らなくても常識と言われてしまうとそんな気になったりしてしまう。
そのことが本当に大事なことならそれでいいが、どうでもいいことを、これでなくては、と言われてしまうと困ってしまう。
いちゃもん
パリサイ人と律法学者がエルサレムから来た。エルサレムとは宗教的な権威の中心地。いよいよ中央の偉いさん方の耳にもイエス・キリストの噂は届いてきた。自分達の教えを否定するようなやからを懲らしめてやろうというようなことだったのだろう。彼らが問題にしたのは、イエスの弟子たちが手を洗わないでパンを食べている、ということ。昔の人の言い伝えを守らず、汚れたままの手で食事をするのはいかがなものかというわけだ。
ユダヤ人たちは汚れることを怖れていたようだ。旧約聖書には何をすると汚れるとか、いつまで汚れるとか、そんなことが書かれている。そして汚れることは神から嫌われる、断絶されることと考えられていたんだろうと思う。そのためにいつどこで汚れるか分からないので、身を清めたり器を洗ったり、念入りに手を洗っていたようだ。そしてそうすべきだというのが言い伝えとなりしきたりとなっていたようだ。
律法の中には汚れないようにと言うことが書かれているようだし、そのために具体的にどうするかという話しになってくると、事細かにこうすべきだと言われた方が分かりやすい。
でもここでイザヤの言葉として言われているように、それがいつのまにか只の人間の言い伝えとなって空しく神をあがめているということになってしまっていたということなんだろうか。神との関係を正常に保つための律法から、只の儀式というか只のしきたりになってしまっているということかなと思う。つまり神との関係を保つためということがすっぽり抜け落ちてしまっている、心の中に神がぬけおちてしまっている、そんなことになっているということかなと思う。
神と人間をつなぐための律法、人間が人間らしく生きるための律法だったはずなのに、その目的が抜け落ちて、勝手に拡大解釈した言い伝えによって意味のないことをしている、それだけではなく人を裁く道具にしてしまっているではないかと言っているようだ。
私たちはいろいろなことに不安をもっている。こんなんでいいのだろうか。信仰に関しても同じように不安がある。これで大丈夫だという保証が欲しい。ここまですれば合格、といった基準が欲しい。その願いが人の言い伝えを作っていったのではないか。神がこうしなさい、という以上に事細かに決まりを作っていくことになった。どうしてそうするのかなんてことは分からなくても、昔からのやり方でないとだめだとこだわるのも同じことかも。とにかくそうやって、これはこうするもんだ、という決まったものがあれば、それを守っていれば安心することはできる。達成感も持つことができる。
でもそれがいつしか、その決まりを守ることが信仰なんだということになってしまう。その決まりをだれが作ったものなのか、何のためのものなのかなんてことは関係なく、言い伝えられた決まり守ることが大事になってしまう。
コルバン
そしてそれが行きすぎると律法そのものを否定することになっているということで、その象徴としてコルバンの話しをしているようだ。
「父と母を敬え」十戒の中の戒め。しかしこれをコルバンと言えば、つまりこれは神への供え物ですと言えばそれで何もしなくてもいい、ということにしてしまった。コルバンという言葉が切り札となっていった。この言葉によって何でも許され、誰もが何も言えなくなってしまった。
言い伝えによって戒めを否定してしまっているということだ。神の戒めよりも、人間の言い伝えの方が大事になってしまった。コルバンという言葉によって神の戒めが無にされることになった。
今で言えば「信仰的に、福音的に、聖書的に、神学的に、霊的に、恵み、感謝、導き」といった単語を言葉の端々に言っておけば、実態は違っていても立派な信仰者となったような気になって、回りからもそう見られたりすることがある。
ある人がこんなことを言っている、
「繰り返される宗教的な決まり文句は化石となった言葉である。口先だけで自動的に出てくる言葉は化石化した言葉にすぎない。もし今日の教会の力が弱いとするならば、それは教会が生きた神の言葉ではなく、化石化した人間の言葉を語っているからではないだろうか。生きた言葉は必ず生きた応答を呼び起こすのである。」
でも何が神の掟で何が人間の言い伝えなのか、その区別をするのって案外難しいんじゃないかという気がしている。どこでどう判断すればいいんだろうかと思う。しかも旧約聖書で言っていることと、イエスが言っていることがだいぶ違っていたりするから、どうするのが正しいのかと思う。結局は何が正しいことなのか、どうすべきなのか、いつも考えていないといけないということかなと思う。神を見つめるため、神とつながるためにすることなのか、それとも根拠のない言い伝え、根拠のないしきたりなのか、それを見極めていないといけないということだろうと思う。
またイエスは、手を洗うという人間の取決めによって手を洗わない人間そのものを否定したり、切り捨てたりするあり方を拒否されたのだと思う。そして「手を洗うこと」で自分が清くなったと思い込み、そのことで自分が正しい側の人間だと思い、他者を批判する、そのことを非難されたのだと思う。実はそうやって自分はやっていると傲慢になること、そしてやっていない他の人を批判すること、そのことをイエスは一番批判しているのかもしれないと思う。
ネットでこんな言葉を見たことがある。
『僕の妻はテーブルマナーの先生もしているんだけど、食事中いちばんやってはいけないことは「それマナー違反ですよって指摘すること」だと教えています。』
心
イエスは、汚れとは外から人の体に入るものではなく、人の心から出てくるものだと言っている。汚れとはウイルスのように外で感染するようなものではなく、人の心の中にあるものだということだろう。洗ってぬぐえるようなものではないということだろう。
人を批判すること、言い伝えを守らないからと批判すること、それは悪い思いだ、実はそれこそが汚れだ、ということを言っているように思う。
そんな自分の心の中にある汚れ、悪い思い、それをしっかりと見つめなさい、、汚れを持っているんだということを知りなさい、そして汚れを洗い落として清くったと勘違いし人を批判するようなことのないようにしなさい、そう言われているような気がしている。