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礼拝メッセージより
湖上を歩く?
湖の上を歩くなんて、普通はそんなことあるわけないよなと思う。舟が風で岸辺に流されて、波打ち際を歩いていたイエスが湖の上を歩いているように見えたんじゃないか、なんて説を聞いたこともあるけれど、どうなんだろう。
5つのパンと2匹の魚で5千人を養ったという話しのすぐ後の出来事ということになっている。イエスは弟子たちを舟に乗せて向こう岸のベトサイダへ行かせて、群衆を解散させて、自分は祈るために山へ行ったと書かれている。
福音書にはイエスが度々山に行ったことが書かれている。山で祈るなんてこともよく出てくる。旧約聖書でもそうだけれど、山というのは神との関係が深い場所だと考えられているみたいだ。
弟子たちはイエスに言われたとおり湖に舟を漕ぎ出したようだ。この湖はガリラヤ湖とかティベリアス湖とか呼ばれる湖で、南北21km、東西13kmの大きさだそうだ。呉と江田島に囲まれている海を一回り大きくしたくらいだと思う。
その湖に弟子たちは漕ぎ出したけれども逆風でなかなか進めないでいると、夜が明ける頃、イエスが湖上を歩いて来て通り過ぎようとしたと書いてある。
なんだかよく分からない話しだなと思う。湖の上を歩くというのも不思議だけれど、夜明け頃ということは一晩中舟を漕いでいたということだろうけれど、そんな大変ならもっと早く助けてやればよかったんじゃなかと思うし、そばを通り過ぎようとされたということはそもそも助けるつもりはあったんだろうかと思う。
弟子たちはイエスを幽霊だと思っておびえて大声で叫んだとあるが、そんな状況なら当然だよなと思う。しかしイエスが舟に乗ると風は静まり、弟子たちは驚いた、という話しだ。不可解なことがいろいろとある不思議な話しだ。
復活
多くの聖書学者は、この話しは弟子たちの復活後のイエスとの出会いを所長的に描いた話しではないかと考えているそうだ。
福音書には弟子たちが復活のイエスと出会った際に、イエスとは分からず幽霊だと思ったという話しがある。復活のイエスとの出会いというのは、人と人がどこかでバッタリ出会うといような、そんな単なる人との出会いとは違うということだろう。肉体の目でそこにいることを見るというような出会いではなくて、心の目で見る、魂の目で見るというか、あるいは心で感じるというか魂で感じるというか、そういう出会いなのではないかと思う。心の中にその姿が浮かび上がるような、そんな出会いだったのではないかと思う。
弟子たちが復活のイエスと出会ったのは、イエスの十字架を経験した後のことだった。師匠であるイエスを失った、しかも社会の反逆者として十字架刑で失った弟子たちだった。この先どうしていけばいいのか、皆目見当もつかない状態だったんだろうと思う。
それはまさに弟子たちだけで舟に乗って、逆風の中を漕ぎ出しているような状況だったのだろうと思う。
しかし弟子たちはそんな中で復活のイエスと出会った。それはきっと彼らの心の中にイエスの生前の姿がおぼろげに、そして次第にはっきりと浮かび上がってくる、そんな出会いだったのだろうと思う。
その出会いは決定的な出会いだったようだ。イエスの弟子として、反逆者の弟子として、社会から隠れて引きこもっていた弟子たちを立ち上がらせる、そんな出会いだったようだ。それは弟子たちに勇気を与える、そして心の嵐をすっかり鎮める、そんな出会いだったようだ。
逆風の中に
逆風に苦闘している弟子たちの姿は私たちそのものでもあるように思う。この世の荒波や逆風にもてあそばれて苦闘している私たちを、イエスは見ている。私たちには苦しみしか見えない、そんな時にもイエスは私たちをしっかりと見ている。そしてイエスの方から近づいて来られる。
逆風の中にこそイエスは共にいるのかもしれない。あるいは逆風の中でこそイエスを感じることができるのかもしれない。
苦しい時の神頼みって、そんなことでは駄目だと言われがちだけれど、いいんじゃないかなと思う。苦しい時に頼める神がいる、苦しい時に祈れる神がいる、それはとても嬉しいことだ。
人生には嵐がつきものみたいだ。嵐のない人生を願っても、またそれを祈ってもどうやら叶わないようだ。人生の逆風はなかなかおさまってもくれないし、そう祈っても逆風はなかなか静まってもくれない。
しかし私たちがたとえ嵐の中にいたとしても、私たちの心が静まっているならば、その嵐の中を生き抜くことができるのではないかと思う。
イエスは人生の嵐を鎮めるのではなく、その中で生きる私たちの心を鎮めるという仕方で、逆風の中で生きる私たちを励まし支えてくれるのではないだろうか。
イエスが舟に乗り込むと風は静まったと書かれている。イエスを迎え入れることで、復活のイエスと出会ったことで、弟子たちの心が静まったということを伝えているのではないかと思う。
私たちは逆風の中を生きている、しかしその逆風の中にイエスは共にいてくれている。そのイエスから、逆風の中を生きる力を受けていきたいと思う。