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礼拝メッセージより
奇跡?
イエスが男だけで五千人の人にパンと魚を食べさせた、という話しは四つの福音書全てに書かれている。それだけよく知られた有名な話しだったのだろう。
昔見た映画では、イエスが祈っていると魚がどんどん沸き上がるように増えていったなんてのがあった。福音書に書かれている文字通りのことが起こったのだろうか。昔は聖書に書かれていることをそのまま信じることこそが信仰だと思っていて、理解できないけれど信じようというか、とにかく信じなきゃいけないと思っていた。
ある時誰かの説教で、少年が自分の持っていたものを捧げたことに感銘を受けて、みんなも自分の持っていた物を差し出したのでみんなが満腹になったんじゃないか、と言っていた、なるほどそうかもしれないと思う。
インターネットでいろんな人の説教を読んでみると、理解できないけれど不思議なことが起こったのだ、だから奇跡なのだ、イエスだからできたんだ、というような説教も多かった。
なんだか分からないけれど実際に起こったと信じることが信仰なんだろうか。でも本当に文字通りこんなことが起こったとはなかなか思えない、こんな質量保存の法則に反するようなことが実際にあったなんてことは思えないというのが正直なところだ。一応理系だし。
平清盛が音戸ノ瀬戸を作るときに太陽を呼び戻したという話しがあるけれど、それは平清盛の偉大さを伝える話しであって、実際にそんなことがあったなんて思っている人はいないだろう。今日の話しもそれと似たような話しで、イエスの偉大さというか、只の人間ではない、神の子なのだということを伝えようとする逸話なのではないかと思う。
奇跡はあったんだと信じることで希望を持つこともできるのかもしれないけれど、じゃあ信じて祈れば自然の法則に反するようなことをしたのか、できるのかというとやっぱりそうはならないと思う。
ではなぜこんな奇跡物語が聖書に書かれているかというと、この物語を通して言いたいこと、伝えたいことがあるということだろうと思う。
命のパン
6章41節に「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」と書かれている。
実はこの物語は主の晩餐においてイエスの体であるパンを食べることですべての人が満ち足りる、イエスこそがそんな命のパンなのだということを伝えているのではないかと言っている人がいて、そう言われるとそんな気もする。
同じ内容の話しがヨハネによる福音書6章にもあるけれど、そっちではその話しの少し後の6章35節には「「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」なんていうイエスの言葉がある。
イエスは天からのまことのパン、神のパン、命のパンであって、イエスのもとに来る者は決して飢えることがなく、イエスを信じるものは決して渇くことがない、ということを伝えたい、そのためにこのイエスが5000人を満腹にさせたという物語が福音書に載せられているということなのではないかと思う。
「私たちの人生の最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自己を拒否することである。」(ヘンリ・ナウエン/カトリックの司祭、元ハーバード大学の教授)
自己を拒否するとは、こんな自分ではいけない、こんな自分は認められない、こんな自分は誰からも相手にされない、こんな自分は駄目なのだ、と思っているということではないか。そして自分のだらしなさを嘆き、かつての自分を後悔し、自分の運命を呪い、自暴自棄になってしまう。そんな魂の空腹を満たすものを私たちは一体どこで手に入れることが出来るのだろうか。
そんな私たちに、イエスは命のパンを与えてくださるということだ。イエスは5千人を満腹させるような命のパンであるというのだ。
お前はお前でいい、そのお前を愛している、そのままのお前が大好きだ、そのままのお前が大事なのだ、イエスはそう言われているのだと思う。そうやって徹底的に肯定してくれているのだと思う。私たちはそうやって根底から支えられ肯定してもらうことで生きていけるのだと思う。
昔、あなたが大切だと誰かが言ってくれたら、それだけで生きていけるというCMがあったけれど、まさにその通りだと思う。(このCMの話しするのはちょっと小っ恥ずかしい。)
そんなイエスの言葉を聞くこと、心の耳でしっかりと聞くこと、それが命のパンを食べることなんだと思う。
イエスこそ、私たちを生かす、満腹させてくれる命のパンなのだ、だからその命のパンを食べて欲しい、イエスの言葉をしっかり聞いて欲しい、今日の聖書はそのことを伝えようとしているのだと思う。
分けると増える
という話しかなと思っていたけれど、今回分けると増えるという話しなのではないかという気がしている。
イエスは弟子たちの持っているもの、愛、喜び、平和、寛容、親切・・・、そんなものを賛美の祈りを唱えて分けた、そうするとみんなの心に、愛、喜び、平和、寛容、親切、そんなものが満ちあふれたということを言いたいんじゃないかという気がしてきた。
弟子たちが持っていたものはほんの少し、あるいはほんの小さなものだったのかもしれない。それは弟子たち自身、こんなものは大したものではないと思う、何の役にも立たないものとしか思えない、そんなものだったのだろう。
小さな愛、小さな喜び、小さな親切、小さな笑顔、こんなちっぽけなものでは何の役にも立たないと思っている、その小さな愛、喜び、笑顔を分けなさいとイエスは言われたのではないかと思う。分けることで小さな愛や小さな喜びが何千人をも満腹させるような大きな喜びになっていくのだということを伝えているのではないかと思う。
あなたの持っている、その小さな愛、小さな喜びはとても大切なものなのだ、尊いものなのだ、それは分けるとどんどん増えるすごいものなのだ、だから小さな愛や小さな喜びを分けていきなさい、分けるほどに大きくなっていくんだ、今日の物語は実はそんなことを伝えているのではないかと思った。