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礼拝メッセージより
ヨハネの死
今日の箇所は洗礼者(バプテスマの)ヨハネが処刑されたいきさつになっている。
ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(1:3)
当時ユダヤ地方はローマ帝国に支配されていて、人々は苦しい生活を送っていたようだ。そこでローマに対する反乱も続いていて世の中が騒然としていてそうだ。世の終わりが近づいているという雰囲気にもなっていたようで、そんなことからも人々はヨハネの下にやってきて悔い改めのバプテスマを受けていた。イエスも当初はヨハネの弟子となっていた。
ヨハネを殺したのが今日の聖書にヘロデ王として登場する、ヘロデ・アンティパスだった。ヘロデ・アンティパスは、イエス誕生の時に2才以下の子どもを殺すように命じたとされるヘロデ大王の孫にあたる。ヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主をしていて、最初アラビア王ナバテヤの娘と結婚していた。どうやらこの結婚は政略結婚だったらしい。そこでナバテヤの娘と別れて、自分の異母兄弟ポエトスから、その妻ヘロディアを奪い結婚したようだ。
そしてそのことを洗礼者ヨハネに非難されたことから、ヨハネを捕らえた。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヨハネが言ったと書かれているが、これは旧約聖書レビ記20:21に「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない。」と書かれていることのようだ。
そこで自分の誕生日の祝いの宴会の時にヨハネの首をはねたということになっている。
ユダヤの歴史家のヨセフスという人の書いた「古代誌」という本によると、ヘロデ・アンティパスはヨハネの人気が高まることで、やがて反乱の種になりかねない、そうするとローマ帝国から更迭されるかもしれないというような怖れから、ヨハネを捕らえて殺したと書かれているそうだ。そこには、ヨハネが処刑されたのはヘロデの王宮からは遠く離れているマカイロスという要塞であって、そこにはヘロディアも娘のサロメも登場しないそうだ。
ヘロデがサロメの踊りに喜んでヨハネの首を盆に載せて持って来たと言う話しはどうやら実際にあった話しではないようだ。けれど、この物語は多くの画家が題材としたり、オペラとなったり、映画となったりして有名になっているそうだ。
正義
こんなことになる前に、打つ手はいくらでもあったはずだ。そもそも本当のことを言わなければ良かった。「兄弟の妻をめとるのはよろしくない」とか「まむしの子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」なんていわなければ、自分の命を取られるなんてこともなかっただろうに。
権力者が不正をしたり、民衆をしいたげたりしても、そういう人が自分の地位を守ることだけを考えていても、わいろを取っていたりしても、口出ししなければ、あるいは当り障りのないことだけを言っていれば、こんなことにはならなかっただろうに。
預言者であることや、時代の良心、世の塩であることをきっぱりやめて、ヨハネ自身がこの世に合わせて、生きていれば、世渡り上手に生きていれば、でもそれはヨハネがヨハネでなくなることだろうけれど、もっともっと長生きできただろう。でもヨハネははヨハネであることをやめなかった。真実を語った。まさに正義と真実の人だったようだ。
ヨハネとイエス
だからこそヨハネは罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていたのだろう。悔い改めて罪を赦してもらい正しく生きるようにと宣べ伝えていたようだ。
イエスも最初はそのヨハネの下に出向いていたようだけれど、やがて方向性の違いを感じてそこから離れていったのだろうと思う。イエスは悔い改めることや罪を赦してもらうようにということを伝えているわけではないと思う。イエスは天の父が人々を愛してくれていること、すべてが赦されていることを伝えている。そして苦しみながら生きている人たちに寄り添ってきた。
ある人が、「教会は多くの場合、イエスではなく、ヨハネの宣教を宣べ伝えています。『罪を認めなさい。悔い改めなければ救いはない』とか『信じなさい。信じない者は地獄に行く』とか、私たちが言う時に、それはイエスの伝えられた良い知らせ福音ではなく、ヨハネの伝えた審判の言葉です。・・・イエスは信じない者のために活動された、イエスは『罪は既に赦されている』と宣教された。そこに『良い知らせ』があるのです。」(篠崎キリスト教会の説教より)と語っている。
そもそもイエスが悔い改めとか罪について語っていることはあまりないそうだ。罪を認めることが大事だ、罪が赦されることが大事だ、なんてことは言ってないようだ。逆に3:28に「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」と言っている。
罪なんて赦されるんだから気にするな、私がお前を愛しているということ、いつも共にいるということ、そのことを忘れないで欲しい、イエスはそう言っているのではないだろうか。