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礼拝メッセージより
派遣
地元ナザレの会堂で話しをしたあとの話し。イエスは人々の不信仰に驚いたと書かれている。大工なのにとか、マリアの息子なのにとか言われて、自分の話しをまともに聞いてもらえないというか、聞こうともしてくれなかったことに驚いたようだ。
しかしその後イエスは付近の村を巡り歩いて教え、今度は弟子たちを派遣することになった。
3:13-15「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」
それまではイエスの側にいて、イエスの言葉を聞き、イエスのわざを見ていた弟子たちだった。
イエスは12弟子を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにして彼らに汚れた霊を制する権威を授けた、と書かれている。
しかし彼らの与えられた指示はびっくりするような者だった。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」(6:8-9)
イエスが持っていけといったものは杖と履物だけ。しかし、その他のもの、袋(これは施しを受けるためのものらしい)も、帯のなかに金も持つな、また下着も二枚着るな、という。これは当時は身の安全のための重ね着をしたらしいがそれすらもするなと言われている。
彼らは二人ずつ組にしれ遣わされた。何で二人なんだろう。二人が協力して支え合い助け合いながらということなんだろう。
しかし二人というのは非常に危険を伴うという話しを読んだことがある。アメリカとソ連が競って人工衛星を打ち上げていた時期があった。その時いろいろな技術を駆使して相手よりも優れたものを作ろうとして、お互いに独自のものを作ってきた。そして情報は当然漏らさないようにしていたが、奇しくもアメリカとソ連の技術者がたどりついた設計思想があった。それは二人乗りのロケットは作らない、ということだったそうだ。二人きりにするとどんなに仲の良い友達でも喧嘩するらしい。だからアメリカもソ連も二人乗りのロケットは作らなかったそうだ。でもイエスは二人で行かせた。関係ないか。
彼らは二人きりで旅をしなくてはならない。けれども食物や金はいらないのか。また当時の旅は今の日本とは比べ物にならない危険なものだったようだが、自分の安全を図る必要はないのか。これではあまりにも簡単すぎる。あまりにも少なすぎる。あまりにも何もないではないか。
ある人はここを説明して、彼らは差し迫った神の国の到来を告げる緊急の使者なのだから軽装なのだという。しかし、ここには急ぐようにという指示はない。ある家にはいったらその土地を去るまでその家にとどまり、じっくりとやりなさい、と言っているように思える。
またある人はここで、神の守りと日々の糧が与えられることを信じられるよう、彼らを訓練しようとされているという。
確かにそうかもしれない。しかし彼らが何も持たないことが訓練のためだという言葉もないし、旅先でも神が守ってくださり、神からの援助があるのだ、ということを期待させる言葉もない。
それどころか、11節では彼らが迎え入れられない時についての指示が与えられている。足のうらのちりを払い落とせ、という指示だ。
当時ユダヤ人は旅をして異邦の土地から戻った際、そこでついたと考えられる汚れを落とすという意味で、ちりを払い落としていたそうだ。
弟子たちは異邦の土地へ行くわけではないだろうから汚れを落とすという意味でそれをするということではなく、宣教がうまくいかないことの責任は自分達にないということを示す行為だったのではないかと思う。
ともあれ、イエスは弟子たちが受け入れられない場合があることを予告している。にもかかわらず、彼らが殆ど何も持たずに旅立たなくてはならないのは何故なんだろうか。
何のため
イエスの宣教とは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1:15)と告げることである。弟子たちも人々が悔い改めるようにと宣教したことであろう。
福音とは悔い改めを起こさせるものだ。悔い改めとは、私は悪うございました、これからは悪いことはしませんということではなく、向きを変えることだ。目指す方向を変えることだ。
今までの過去の生き方とは決別し、全く新しい自分を生きようとさせるものである。自分の力だけで生きようとすることをやめ、神の力によって生かされようとすることだろう。神に愛されていることを知り、神に支えられていることを知り、神と共に生きる、そこに新たに生きる力が湧いてくる、そんな生き方を始める、それが悔い改めだろうと思う。
イエスはそのことを語り、弟子たちもそのことを語っていったのだと思う。
準備OK?
ここでは13節に「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」と書かれているが、そんなにうまくいったんだろうか。
そもそも弟子たちは特別な訓練は何もしていないようだ。特別な才能を持っていたわけでもない。イエスの選びには何の一貫性も見いだせない。そして彼らは杖以外、何も持たずに出掛けていった。袋も金も、そして才能も訓練も、経験も何もなかった。彼らにあったのは、ただイエスの命令と汚れた霊に対する権能だけだった。
あまりにも何もなさすぎじゃないかという気がする。
ここは今の教会に対する言葉であるとも考えられるようだ。
しかしちょっと待って、と言いたくなる。いや実際いつも言っている。もう少し聖書の知識を持ってから、もうちょっと自由な時間を持ってから、もうちょっと自信をもってから、もうちょっとお金に余裕を持ってから、もうちょっと信仰を持ってから、なんてことを思う。
人間は何でも持つことが好きだ。しかし持っているものまでもイエスは置いていけと言われるのかもしれない。自分の中にある自信も、自惚れも、優越感も全部おいていけと言われているようだ。
ただイエスの命令によって、イエスの権威によって出ていけ、出ていって告げよ、福音を告げよ、と言われているのではないか。
準備万端、準備OKだ、とイエスは言っているのかもしれない。私たちは、あれがない、これがない、あれが足りない、これも足りない、と思う。でもイエスは準備OKだと言っているような気もしている。
実際には宣教なんてなかなかできないし、悪霊を追い出すことも病人をいやすこともできそうにもない。でもそんなことさえも気にしなくていい、ただ私に倣ってそんな苦しみ悩んでいる人たちに寄り添って生きなさい、そして私の言葉に支えられて、私の弟子としてこの世で生きていきなさい、イエスは私たちにそう言っているのではないか。