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礼拝メッセージより
ふるさと
故郷って詩がある。「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの・・・」(室生犀星)
故郷ってのはどんなところでしょうか。僕の故郷は田舎なもんで、ほとんどが昔ながらの人たちばっかり。近所のおじさん、おばさんたちは僕が子供のときからいる。親戚もだいたい近くにいる。ある時気がつくと、知っている従兄弟はみんな地元にいる。何年かごとにあちこち住所が変わる落ち着きのない人間は、いとこでは僕だけ。
なんでみんな地元に住むのか、と考える事がある。そんなにいいのかなあ、なんて思ったり。僕はあまり帰りたいと思ったことはない。
僕にとっての故郷はつらい過去の場所、というか、あまりほじくりかえしたくないことのあった場所で、そんなこともよく知っている人がいっぱいいる。だからあまり帰りたいとは思わない。もしずっと優等生で品行方正で過ごしていれば、そして名の通った会社に就職でもしていれば偉そうな顔をして帰るのかもしれない。故郷に錦を飾るような思いがあれば偉そうに帰るんだろうけれど、そんなものは何もないので帰りたいと思わない。
ナザレ
イエスにとっての故郷とはどんなところだったのだろう。ナザレという田舎の町がイエスの故郷だった。安息日に会堂で教えはじめた。会堂長は会衆から一人を選んで聖書朗読と説教をさせることができた。特に資格のあるものだけが説教をしたのではなかった。
ナザレの人たちはイエスのことをなにもかも知っていた。少なくともそのつもりだった。その母親も兄弟も姉妹も昔から知っていたようだ。この日、会堂で説教をする前まではみんなよく知っているつもりだったことだろう。
しかし、この知っている、知っているという思いが、実は曲者だったんだろうと思う。
この少し前からのイエスの活動について、多少なりとも聞いていたかもしれない。多分いろんなうわさは聞こえていたであろう。でもそのうわさを真に受ける人はいなかったのだろう。
しかしこの日、イエスの話しを聞いてみんなびっくりしてしまったようだ。いったいこんなことを何処で聞いてきたのか、いつの間に勉強したのか、あのイエスが信じられない、そんな気持ちでいたようだ。
ただの大工だったじゃないか、あのマリアの息子じゃないか、そんな風に言ったらしい。普通なら父親の名前を出してヨセフの息子というらしいけれど、あえてマリアの息子と言っているようだ。どうやらイエスは父親が誰だかよくわからない私生児だと言われていたんだろうと思う。私生児のくせにいつからこんな偉そうな話しをするようになったのかという気持ちもあったのだろう。
良く知っている、という気持ちがイエスの本当の姿を知ることの邪魔になっている。大工だ、私生児だという前提が大きすぎて、イエスの話す言葉をまともに聞けなかったということだったんだろうと思う。
ナザレの人々はイエスの躓いたと書かれている。彼らは自分たちの中のイエスのイメージに縛られて、それを捨てることが出来ず、イエスの話しをまともに聞くことができなかったようだ。
平凡
ナザレの人々がイエスを受け入れなかった理由のひとつが、イエスがあまりにも普通の人だったからではないかという気もする。いかにも神々しく光輝くような人物だったなら、たとえ大工だったとしても、私生児だったとしても、人々の反応も恐らく違ったであろう。見るからに何か普通ではないものを持っていたとするならば、特別なものがあったならば、あるいは人々も一目置いたかもしれない。
やっぱりそうか、あいつは昔から何か違っていたから、いずれはこうなるだろうと思っていた、ということになったかもしれない。でも、多分イエスはあまりにも普通だったのだと思う。何も肩書きもない、むしろ恥ずべきような肩書きしかない者の話しをまともに聞くことは出来なかったようだ。
視点
さて、昔中3の時に好きな先生がいた。その人はもうお祖父さんといった歳で国語の先生だったが、国語の授業は半分くらいしかしなくて、いつも国語とは関係のないいろんな話をしてくれた。国語の点数はいつも50点くらいで悪かったが、この先生の授業は好きだった。他の先生とは違って、いろいろなことに批判的な目を持つことの大切さを初めて教えてくれたのはこの先生ではなかったかと思う。
この先生から聞いた話し。ある高校の理科の教師が論文を書いて提出した。でも審査員はたかが高校の教師だから、とろくに見もしないで放っておいた。30年位たってから、その教師の教え子が大学の講師になって、かの先生に教えられたことを話したら、皆からそれは凄いとほめられたそうだ。しかしこの講師は、そんなことはあの先生が30年も前に論文に書いていたと言った。それから30年前の論文を探した。その論文の上には埃が30pも積もっていた、という話し。埃が30pも、と言うときに笑いながらとても嬉しそうに話していた。
今でも日本では肩書がものをいうことが多い。肩書のないものなど見向きもしない、どんないいことを言っていても聞きもしないことも多い。
それ程肩書きのない人の話しには、大した話しではないと言いつつ、同じ話しを肩書きのある人が話すと、いい話しだったなんて言ったりする。その話しが本当にいい話しだったならばいいけれど、そう思わないといけないような気になっていたりすることもある。
イエスの話しがどういうものだったかは分からない。しかし人々は、こいつはどこでこんな話を聞いたのか、なんでこんな話をするのか、こいつは大工ではないか、大工がどうして偉そうに説教するのか、そっちの方にばかり気が向いているようだ。しばらく見ないと思ったら変な弟子を引き連れて急に帰ってくる。そうかと思えば聞いたこともない話をする。おかしくなったんじゃないのか。大工は木を切って、家を建てとけばいいんだ。こんな話を聞きにきたんじゃない、偉い先生のありがたい話を聞きに来たんだ、と思ったんじゃないだろうか。そうやってナザレの人々は結局イエスの話しの内容よりも、イエスの肩書きばかり見ていたようだ。
心で聞く
さて私たちはイエスの話しをどれほど聞いているのだろうか。イエスの本当の姿をどれほど見ているのだろうか。
大工のイエス、マリアの息子のイエスという見方をすることはあまりないと思う。けれど逆に神であるイエス、神の子イエスという見方というか、そういう前提でイエスを見ていること、そういう前提でイエスの話しを聞いていることがあるんじゃないかと思う。
イエスの言葉だから、有り難い言葉だから有り難く聞かないといけないような気持ちになることがあるんじゃないだろうか。イエスの言葉だから正しい言葉であって、そのまま素直に信じなければいけないような気持ちになっていることがありはしないだろうか。
そんな前提があるとしたら、私たちも結局はイエスの話しをそのままに聞けてはいないのではないかと思う。
イエスが神であるとかないとか、神の子であるとかないとか、そんな前提も全部なくして、ただ純粋に聞くことが大事なのではないかと思う。
どういえばいいのかよくわからないけれど、こういう人の言葉だからという前提を持って頭で聞くのではなく、前提を取り払って心で聞くことが大事なのではないかと思う。心に沁みる言葉として聞くことが大事なのではないかと思う。
イエスの言葉って、頭で理解してということもあるんだろうけれど、それよりも心に沁みてきて、心で聞くものだと思う。ホッとしたり、慰められたり、元気になったり、感動したり、イエスの言葉ってそんな風に私の心を揺さぶるものだと思う。
心で聞き、心を揺さぶられるからこそ、それが神の言葉となるのだと思う。