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礼拝メッセージより
ヤイロ
イエスが湖のほとりにいた時、ヤイロという会堂長がやってきて足下に平伏して、娘が死にそうだから助けてくれと願ったという話しだ。
会堂長。ユダヤ教の会堂の管理人。ユダヤ人にとっては心の拠り所。ユダヤ人社会の中心。その会堂の管理人。会堂の運営や儀式の設定についての責任者でもあった。キリスト教で言えば教会の牧師のようなものか。今の日本の牧師は大した権威はないが、当時のユダヤ教は単なる宗教団体ではなく社会そのものでもあった。生活と宗教とが密着している中で、その拠り所である会堂の管理人である会堂長は人々から尊敬され、社会的信用の深い人物であり、社会的な影響も与えていたのであろう。牧師と言うよりも町内会長とか村長とか町長といった方が近いのかもしれない。
このヤイロがイエスをどうみていたのか。もちろん噂は聞いていたのだろう。ユダヤ教にとって、イエスは自分を神の子だといい、律法を公然と破る異端者であり、敵対者であった。宗教的な反逆児というだけではなく、それまでのしきたりを破り社会を乱す者でもあった。実際ユダヤ教の指導者たちはイエスの命まで狙うようになった。ヤイロ自身がそこまで敵対心を持っていたかどうかはわからないけれど、何もなければあまり関わりたくないというような気持ちだったのではないかと思う。
しかし、娘が重い病気になり死の恐れが迫ってきた時、彼の心にうかんだのはイエスへの思いであったようだ。会堂司という立場上イエスのところへ行こうと思うまでにはいろんな葛藤があったに違いないと思う。それまでにも娘の病気を治すためにいろんなところへ行って娘を助けようとしたことだろう。
多分あらゆることをやってもだめで、結局はイエスにすがるしかない、そんな思いになっていったのではないかと思う。
それまでは、社会から取り残されたような者、つまり会堂から追い出されたものや会堂に入れてもらえないような者に対して、イエスが配慮し、様々な問題を解決しているうわさを聞いて、ヤイロは立場上苦々しく思い、批判的に見つめていたに違いない。
しかし、今自分の上に大きな悩みが振りかかってきたとき、どんなに努力しても、誰の力をかりても娘の命を助けられないと分かった時、自分の無力さを知ったとき、ヤイロの思いはイエスへと向いていった。それは同時に自分の社会的立場も名誉も、世間体も投げ捨てることと引き換えでもあったのだろう。教会の牧師がどこか別の宗教の教祖に助けを乞うようなものかもしれない。
無力
2322-節「イエスを見ると足下にひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』」
娘の事だけを思い、取り乱している父親の姿がそこにある。早くしないと死んでしまう、という苛立ちと恐れがあるようだ。自分にはどうすることもできない、どうか助けてくれという思いがある。彼の言葉にはもうあなたしかいないというような切羽詰まったものが感じられる。しきりに願ったということは何回も繰り返して願ったということか。
もう一人
イエスはヤイロと共に出掛けた。大勢の群衆も付いてきていた。ヤイロは一分、一秒でも早くという思いでいたと思うけれど、その時12年間も出血の止まらない女性との出会いによってイエスの足は止まってしまう。
12年間出血の止まらない女とは、子宮からの出血が止まらない慢性の病気ではないかと何かに書いてあった。出血する者は律法では汚れた者とされ、その彼女に触れた者も汚れるとされていたようだ。だから宗教行事に参加できなかったと思われる。ユダヤ教が社会そのものだったので、その宗教行事に参加できないということは社会から除外されるということでもあった。
この女の人は病気の苦しみと社会から疎外されるという苦しみ、そんな二重の苦しみの見舞われていたことだろう。
26節「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」
どれほどひどい状態だったのだろうか、どれほど苦しんだのだろうか。当時病気は悪魔、悪霊の働きと考えられていた。ここには多くの医者と書いてあるけれど、治療とは呪文、まじないによる悪魔払いというようなものだったなんて書いてあった。
次から次へと医者にかかってもまじないをしても治らない。その度に財産も減っていく。どれほど苦しい思いで過ごしてきたのだろうか。「今度こそは」という期待して、結局は裏切られるという連続の12年間だったのだろう。期待が大きいほど失望も大きくなる。そういうことが繰り返されると次はあまり期待しないようになる。だからこの時はそれほど期待してなかったんじゃないかと思う。
だから彼女は後ろからイエスを追いかける。27-28節-には「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」と書いてある。後ろからこっそりと触ったということらしい。触れば癒されるという確信があったわけではなかっただろうと思う。
しかしその瞬間この女の人は病気が癒されたことを感じ、イエスも自分から力が出ていったことが分かったという。
出会い
イエスは、誰が私に触れたのかと言いだした。彼女にとっては思いもしなかったことが起こってしまい恐ろしくなった。そして震えながら進み出てひれ伏した。彼女は病気が治ればそれでよいと思っていたのだろう。こっそり触れてそれで治ればめっけもので、そのままこっそり帰るつもりだったのだろう。
しかしイエスは彼女を捜し出そうとしている。イエスはその人の病気を癒すことよりも、その人と出会うことを大事にしているような気がする。彼女はすべてをありのままに話したという。病気で12年間どれほど苦しかったのかということ、そして今自分の身に起こったことを全部話したのだろう。どれくらいの時間話していたのだろうか。イエスはそれまでの彼女の痛み、苦しみ、悲しみをじっと聞いたことだろう。
そして彼女に話しかける。34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
あなたの信仰があなたを救った、とイエスは言う。彼女はこれを聞いてどれほど安心しただろうか。後ろから服に触れてみてこっそり治してもらえば儲けもの、というような気持ちだったと思う。しかしとても信仰と言えないような思いをイエスは信仰だと言うのだ。そして安心して行きなさい、元気に暮らしなさいという。
そんなのは信仰ではない、服に触って治してもらおうなんて、それも後ろからこっそり触るなんて、そんなのは本当の信仰ではない、という声が聞こえてきそうだ。しかしイエスはそのあなたの信仰だ、あなたの信仰があなたを救ったという。
この女との出会いはヤイロの家へ向かう途中に起こった。一刻を争っている最中に起こった出来事だった。女の病気を癒すことだけが大事なら、イエスは女と話をすることもなかっただろう。しかしこんな時でもあえて女との出会いを求めている。彼女の苦しみを聞くことを大事にしている。イエスはそんな風にその人のすべてと関わり、全てを受け止めようとしているような気がする。
絶望
癒された女の人の話しを聞く間ヤイロは、早くしてくれよと思っていたのではないかと思う。そして追い打ちをかけるようにそこへ家からの遣いがやってきて娘の死を知らせる。
恐らくヤイロはいろんな反対を押し切ってイエスのもとへやってきたのではないだろうか。それは自分の仲間や、あるいは親戚、家族の反対もあったかもしれない。イエスのところへ来ることによってその後の社会的立場は完全に悪くなるということももちろん分かっていただろう。しかしそれも承知でやってきたのではないかと思う。なのに、なのに娘は死んでしまった。地位や名誉や世間体をなげうってイエスにすがってきた、だがそれも無駄になってしまった。娘が亡くなったことを聞いたヤイロには絶望しか残されていなかったに違いない。
そのヤイロに向かってイエスは語りかける。「恐れることはない。ただ信じなさい。」絶望しかない人間に向かってイエスは告げる。「恐れることはない、ただ信じなさい」
このヤイロに対して周りの者の思いはどんなだっただろうか。
会堂長の仲間たち、また会堂の仲間たちはヤイロがイエスのもとへ行くことを苦々しく思っていたのではないか。
娘の死を知らせに来た人々が「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言ったと書かれている。これはイエスに対して配慮しているような言葉だが、本心は、これでイエスを家に近づけなくてよくなった、という安堵の気持ちのこもった声のような気がする。
しかしイエスはそんな言葉を聞き流した。そしてただ「恐れるな、ただ信じなさい」とだけ言った。イエスにはまわりの者の騒音は聞こえず、面子を捨てて自分にすがってくるヤイロしか目に入らないようだ。
イエスはヤイロの家に着くと、「なぜ泣き騒ぐのか。子どもは死んだのはない。眠っているのだ。」と語った。それを聞いたまわりの人々はあざ笑った。イエスは子どもの父母と3人の弟子だけを連れて子どものもとへ行かれ手をとって「タリタ・クム」と言われた。すると少女はすぐに起き上がって歩きだした、と書かれている。
出会い
12年間患っていた病気が治ったり、死んだと言われていたのに起き上がったということは確かにすごいことだ。でもそうやって奇跡的なことが起きたことだけがすごいわけではないように思う。
その後もまたいろんな病気になったかもしれないし、二人ともやがては死んでしまったはずだ。癒されたことよりもイエスと出会ったことが何よりも大切なことだったのではないかと思う。イエスは二人の女性とヤイロに声をかけている。安心しなさい、恐れるな、起きなさい、それぞれ違う言葉をかけている。
教会関係では、私はこんな病気だったけれど癒された、というような人の話しを聞く。昔はそんな話しに惹かれていた。俺たちの神はすごい神だ、本物の神だ、なんて気にもなれて気分がよかった。
でも最近は、癒されないと駄目なんだろうか、癒されることだけに意味があるのだろうか、と思うようになってきた。癒されるかどうかよりも、イエスと出会うこと、イエスの言葉を聞くことこそ意味のあることなのではないかと思うようになってきた。
イエスの言葉によって励まされ、安心し、その後の人生を生きていく力を得ること、それこそが大切なことなんじゃないかと思う。
そのためにイエスはただ癒すのではなく、声をかけたのではないかと思う。イエスは私たちにも聖書を通して声をかけてくれているのではないか。癒されないかもしれない、癒されはしない、けれど癒されないなかで生きていくような、そんな力をイエスは私たちに与えてくれているのではないかと思う。イエスと出会うことで、イエスの言葉を聞くことで、イエスに祈りいろいろな思いを語り、全てを受け止めてもらうことで、私たちは生きていく力を与えられるのだと思う。