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礼拝メッセージより
ありのまま
牧師になってすぐに連合の集会があって、新しく赴任した牧師は自己紹介をするようにと言われてしたことがあった。その時司会をしてた人に、なんか頼りないと言われたことがある。実際頼りないからその通りなんだけれど、あまりにも図星なのでそう言われたことがちょっとショックだった。そんな風に言わなくてもいいだろうにと思った。
牧師になったばかりの頃は一所懸命に牧師らしくしようとしていた。立派で優雅で落ち着いていて、いつもスーツ着て、いつも笑顔で、聖書のことは何でも知ってる、ような振りをしていた。会議というのものが大体嫌いだけれど、誰かがよく分からない難しい話しをするような時があると、話しについていけない自分は駄目だなと落ち込んでいた。
そもそも牧師になる前から誰からも非難されない人間でいないといけないと思っていた。間違いや駄目なところを指摘されるようなことをしてはいけないと思っていた。間違いや失敗をしたりすると誰にも認められないというか、見放されるというか、そんな強迫観念のような気持ちがある。だから間違うことや失敗することをとても恐れていて、でも間違うことも失敗することも当然あるわけで、そんな時は自分で責めてしまう。
しかし間違わない自分でいることを目指すととても疲れてしまう。いつも緊張しっぱなしになる。でもそれは本当の自分をなるべく見せないようにして、いいところだけ見せて、みんなから認められて、誰からも文句を言われないような人間を演じているようなものだと思う。
背が低いのを隠すためにずっとつま先立っているようなもので、そんなことをずっと続けることなんかできないで疲れ果ててしまう。
結局は自分の駄目な部分、嫌な部分、弱い部分を一所懸命に隠そうとしているんだろうなと思う。
でも本当はどんなに誤魔化してもだいたい自分を隠し通すことなんて出来ないし本当はすぐばれてしまっているんだろうと思う。それなのに良い格好をしようとする癖はなかなか治らない。三つ子の魂百までと聞くけれど、最近は本当にそうだよなと思う。
何でこんなんだろうと思う。子どもの時からいつもまわりと比較されて生きてきたように思う。誰それはよくしゃべるのにお前は何も話さないと言われてきた。いつも人との競争の中にいた。学校の成績も、周りの者よりもいい点を取る者が人間としての価値が高くて、成績の悪い者は価値の低い人間だと思っていた。今でも少しそんな気持ちがある。だから人よりも優位に立っている時には安心して、勝ち誇ったように偉そうにしている。逆に自分が劣っていると思う時は途端に生きる価値もないような気になってしまう。
牧師になってからも相変わらずだ。教会を大きくすることもできない、どころか維持することもできていない、そんな知恵も力もない、そんな自分を嘆いてばかりだ。
少しのことですぐ落ち込んでしまい、少しのことですぐ不安になる。間違いや足りないところを指摘されるだけで途端に落ち込んでしまう。説教がうまくできなくて後悔する。いろんな心配事があると、そのために気力がなえてきて何にもできないなんてことがある。心配することにエネルギーを使ってしまって他には何も手につかないという感じ。そうするとなんでいつもこんなに心配ばかりしてるんだろうかと自分がいやになる。どうしてこんなにプレッシャーに弱いのか、どうしてこんなに心配性なのかと自分を嘆く。何でこんなに弱い人間なんだろうと思う。弱い自分を嘆いてばかりだ。
弱さ
パウロは前の手紙で「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(Tコリント2:3)なんてことを言っている。パウロは不安になったり恐れたりしたということをよく言っているようだ。立派なことだけを言っているわけではないらしい。
今日の聖書の個所に似たような文句がある。 『12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』と語る。
弱いことが駄目とは言ってないようだ。それどころかパウロは自分の弱さを誇るなんてことまで言う。どうしてそんなこと言えるんだろう。
人間の価値
トゥルニエという人がこんなことを書いているそうだ。「人間の本当の価値は人がどれだけ近いかにある。現在人類が必要としているものに、親切、安心、情緒、感受性、美、直感といった属性がある。ところが今日それらは「弱い」というレッテルの下に捨て去られている。」
親切、とか安心とかいった人間にとってとても大事なものは実は弱さの中にある、ということらしい。
「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。この力とは神の力ということだろうか。神の力が弱さの中に発揮されるとしたら、自分の弱さを見つめ、そこに立ち続けることが大事だということだろうか。
パウロは自分自身にとげが与えられたことを書いている。
弱さを持って生き続けるということはとげを持ったまま生きるようなものだろう。ちくちくと痛む。なんて自分は駄目なんだろう、なんという憐れむべき人間なんだろうと思う、なんてだらしない人間なんだろうと思う、そんな風に心がちくちくと痛む。でも実はそれこそがとても大事なんではないか。
力
力は弱さの中でこそ十分に発揮される。その力とはどんな力だろうか。弱い時に私たちを強くする力なんだろうか。弱い時でも神さまが強くしてくれるから大丈夫、またすぐ強くなれる、というようなことなんだろうか。そうではないような気がする。
弱さの中に発揮される力、それはトュルニエが言っている親切、安心、感受性というようなことではないかと思う。そしてまたそれは愛ではないかと思う。愛する力、相手のことを心配し大切にする思い、心遣い、いたわり、そういったものがここでいう力なのではないかと思う。
そもそも神の力とは奇跡的なことを起こすものというよりも、それもあるのだろうけれど、それよりも弱さの中に、親切、思いやり、愛、を呼び起こすことのような気がする。
弱いままでいることが大事らしい。強くなる必要もないらしい。偉くなる必要もないらしい。
僕は会議をとても嫌っているが、それは結局は自分が分かってもいないし何も考えられもしないのに、分かったような振りやちゃんと考えているような振りをして、自分を偽っているからなんだろうなと思った。それで疲れるんだと最近気が付いた。その癖はなかなかとれないけれど、分かった振りしなくてもいいんだよな、と思うだけでもすごく安心する。
ある本に「イエスの目」と題する話しが載っていた。
「イエスの目」
ルカによる聖福音書のなかに、次のような箇所があります。
しかしペトロは言った。「人よ、わたしはあなたの言うことがわかりません。」そう言いおえないうちに、すぐ、ニワトリが鳴いた。主は振り向いて、ペトロを見つめられた・・・ペトロは外に出て、激しく泣いた。
わたしは〈主〉とかなりよい関係にありました。わたしは〈主〉にさまざまなことをお願いし、〈主〉と会話し、〈主〉をたたえ、〈主〉に感謝したものでした。
でもいつもわたしは〈主〉が、〈主〉の目を見なさいとおっしゃっているように感じて不安でした・・・・・・わたしは〈主〉の目を見ようとしませんでした。わたしは話しましたが、〈主〉がわたしを見つめておられると感じたとき、目をそらしました。
わたしはいつも目をそらしました。そして、なぜかわかっていました。わたしは怖かったのです。懺悔していない罪のとがめをそこに見いだすように思ったのです。そこに、ひとつの要求を見いだすだろうと思ったのです。〈主〉がわたしから何かを望んでおいでと思ったのです。
ある日、わたしは勇気をふるって、ついに見たのでした! なんのとがめもありませんでした。なんの要求もありませんでした。目はただこう言っていました。「わたしはあなたを愛する。」わたしは目の中を長い間のぞいていました。すみずみまで見ました。そこには次のメッセージがあるだけでした。「あなたを愛する!」と。
わたしは外に出て、ペトロのように泣きました。
『小鳥の歌』アントニー・デ・メロ著 より
礼拝のメッセージで、神は私たちを愛している、神はすべてを受け止めてくれている、なんてことを何回も話してきた。けれど、自分のことを、実は自分自身が一番認めていないじゃないか、自分自身が一番自分を赦していないんじゃないかと思った。神に愛されていること、イエスに愛されていること、この自分を愛されていること、それを一番認めていないのは実は自分自身なんじゃないかと思った。
十分なのか?
今回9節の「わたしの恵みはあなたに十分である」とはどういうことなんだろうかと気になった。
パウロは自分にとげが与えられたと言っている。何かの病気なのか障害なのか、具体的に何なのかはよく分からない。それは自分を痛めつけるためにサタンから送られた使いだと言っているように、パウロにとっては大変つらいことだったようだ。そしてそれを治してくれるように祈ったようだけれど、それに対しての答えが、わたしの恵みはあなたに十分である、ということだったようだ。
自分の苦しみを取り去ってくれることを祈ってるのに、その答えがこれなのか、それはあまりにも残酷なんじゃないかという気がする。恵みはもう十分って、それ以上望むなってことなんだろうか。現状に満足しろってことなんだろうか。なんだよそれって思う。
十分だなんて言われても全然十分とは思えない。全然足りてないという気持ちが強い。大変なことばかり、思うように行かないことばかりだ。神の力でどうにかして欲しい、圧倒的力で良い方向に持っていって欲しいと願う。苦しい状況を解決してくれる、苦しい状況から救い出してくれる、それこそが神なのではないかと思うしそれを願う。
なのにイエスは、わたしの恵みはあなたに十分である、と言われているんだろうか。足りていないと思う時はないもののことばかりを考えてないものねだりになってしまう。逆に十分だと言われれば与えられものに目が向いて感謝することもできるかなという気はする。
しかしこんな自分自身、或いは自分の境遇を見ると、恵みが十分に与えられているとなかなか思えないのが正直だ。ついつい駄目なもの、足りていないと思えるものの事ばかりを見てしまう。
けれどやっぱり十分だと言われているんだろうな。恵みが十分だったと思えるようにして欲しい、というのもやっぱり無い物ねだりなんだろうか。でも恵みが十分だと思えるようになれたらいいな。