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礼拝メッセージより
報酬
世の中にはどうして金持ちがいて、そうでない人もいるのかと思う。そしてどうして自分は金持ちの側じゃないんだろうかと思う。自分よりも金銭的に大変な人がいることも知っているけれど、ついつい金持ちの側に目がいってしまう。
でも報酬って不思議だなと思う。報酬って働いた時間とか働いた量に応じて決まっているのかと思っていたけれど、実際はそうじゃない。同じ時間働いても仕事によって報酬も違ってくる。お金持ちって、お金が一杯流れている場所にいるから、お金がいっぱい手に入る立場に自分が立っているから、お金持ちになっているんじゃないのかなという気がしている。本当は経済のことは全く疎くてよく分かってなくて、だから余計金持ちになれないのかもしれないけれど。
で日本人は、この金は俺が稼いだんだ、という気持ちが強いなんてことも聞いたことがある。だから、自分が稼いだんだから自分の勝手にする、金持ちになったのも自分が努力したからそうなったんで、これは全部自分のものだから全部自分のために使う、というような人が多いらしい。人のことは言えないが。
アメリカでは、企業でも個人でも、持っているものはいろんなところへ、教会とかいろんな団体とかへ寄付するという気持ちが結構あるそうだ。それが慣習となっていてそれに倣っているということもあるのかもしれないが、自分が稼いだということだけではなくて、神から自分に与えられた自分に預けられたという気持ちがあるから、それは自分だけのものではなくてみんなの分も含まれているという気持ちがあると聞いたことがある。
みんなで生きるための分をたまたま自分の所へ預けられた、と思えばそれは自分のためだけではなく他の人のためにも使おうと思えるのかもしれない。案外お金はそうやってみんなで生きるために私たちのところへ預けられているのかもしれない、と思う。でも自分が大金持ちになってもそう思えるかどうかはなはだ疑問ではある。
使徒会議
キリスト教会が異邦人の間に伝わるようになると、ユダヤ主義的なキリスト者たちは、異邦人も割礼を受けて律法を守るというふうに、一旦ユダヤ人とならなければ神の民とはなれないと主張した。それに対してパウロは割礼は必要ないと主張した。そのためキリスト者になるために一旦ユダヤ人にならなければならないのかどうかということが問題となった。そのためエルサレム教会の使徒や長老たちと協議するためにパウロとバルナバたちはエルサレムへ出かけてこの問題を協議した。その会議の様子が使徒言行録15章に書かれている。
激しい論争があったが、結局異邦人はユダヤ人となる必要はない、ペトロたちエルサレム教会はユダヤ人への宣教を、パウロ達の教会は異邦人への宣教を担うということになった。
ちなみにその使徒会議の決定として、使徒会議15:28-29で「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」と書かれている。けれどもこれは結局はユダヤ教の律法を守れと言っているようなことで、パウロはこんなことを認めはしなかったのではないか、これは使徒言行録を書いたルカの創作か、あるいは使徒会議以降にパウロが知らない所で決定した項目ではないかという説明をしているものがあって、多分そうなんだろうなと思う。
パウロは使命を感じて異邦人伝道へと出ていったが、パウロ自身は生粋のユダヤ人であり、ユダヤ人がキリストを信じるようになることを心から願っていることが別の手紙に書かれている。けれども割礼など律法に対する考え方の違いから、ユダヤ人を中心とするエルサレム教会との関係は良くはなかったようだ。それでもそのエルサレム教会への献金をパウロは勧める。
9:2で「アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。」なんて書いているが、アカイア州の中心的な教会がコリンの教会だったそうだ。コリントの教会がエルサレム教会のために献金していることをマケドニアの教会の人たちに誇った、そこでマケドニアの教会の人たちは奮い立ったと言う。もう言ってしまったからその通りにして下さいというような言い方になって半分脅迫みたいになっているが、そのくせ渋々するのではなく惜しまず出してくれというのだ。
実は8章の方でも献金の話しがあって、もともと9章とは別の手紙だったみたいだけれど、そっちではマケドニアの教会がどれほど頑張って献金しているかという手紙になっている。向こうの教会はすごいぞと言って、あんたたちも頑張れって言っているのかな。なんだか競争心を煽っているように見えなくもないけれど。
与えること
パウロの献金に対する考えは、6節以下にあるように、少ししか蒔かない者は借り入れもわずかで、豊かに蒔く人は借り入れも豊かである、そして喜んで与える人を神は愛してくれる、神はあなたたちが善い業に満ちあふれるようにあなたたちに恵みを満ちあふれるさせることができる、というのだ。「9:10 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」とある。つまり献金しようとする者には神はその分の恵みを与えて、献金することで結ぶ実を成長させてくださるというのだ。そのことから感謝が生まれるという。
また8章の最初のところにも施しについて書かれている。とても貧しかったマケドニアの教会が進んで慈善の業と奉仕に参加させてほしいと願い出たという。その中で、「 8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」と言われている。献金することは神に自分自身を献げることなのだ。そしてどうしてそんなことをするのかと言うと、「 8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 8:10 この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。」ということなのだ。イエス・キリストの恵みを知っているからキリストと同じように自分を献げようというのだ。
とまあちょっと小難しいことを言っているけれど、8:14では、「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」と言っているように、ゆとりのある者が苦しい者を助けていこう、お互いに助け合っていこうということだ。
共に生きる
パウロは、コリントの教会に献金することを勧める。献金するということはお金を出すだけではなくて、お金と一緒に心を献げることでもあるのだろうと思う。献金は自分自身を献げることであるということだ。そしてそのことによってエルサレムの教会との関係が生まれてくる。「 9:14 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」という。
献金は共に生きていく、一緒に生きていくという思いの具体的な行動でもあるのだろう。献金することは自分が貧しくなることだ、献金がお金を出すことだけならば、ただ自分のお金が減ってしまうだけだ。
でも献金はただお金を出すことだけではないようだ。むしろ心を差し出すことなんだと思う。心はいくら差し出しても減りはしない。案外心は差し出すほどに増えていくのではないかと思う。困っている教会、困っている人達のため、その人達と一緒に生きていくという心を差し出す、そこでは相手に感謝が生まれ祈りが生まれる。そしてそれだけではなく、差し出すこちら側には喜びが生まれてくるのだと思う。だから心を差し出しても減りはしない、逆に増えていくのだと思う。
刈り入れ
パウロは惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かだという。刈り入れとは何なんだろうか。より一層の恵みなんだろうか。感謝なんだろうか。
恵みも感謝もあまり感じたことがない。というのは惜しまず差し出していないということなんだろうか。そうかもしれないなあ。
この手紙をどれほど真剣に読んでいるのか、と問われている気分でいる。今年度の教会の標語は聖書を味わおうとしたけれど、ちっとも味わってないじゃないかって言われているような気がしている。困った牧師だ、まったく。