【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
経歴
やっぱりパウロの言うことは分かりづらい。頭の出来が違いすぎるようで、頭の良すぎる人の言うことは、頭の悪い自分には分からないことだらけだという気がしている。
パウロはコリント教会を開拓した後、次の土地へ移って新たな教会を開拓していた。その後コリント教会に問題が起こり、それに対して何通かの手紙を書いた。
パウロは、イエスの12弟子ではない、イエスの直接の弟子でないということで責められていた。そんな風にパウロに批判的な人たちがコリント教会にやってきたようで、その人たちの影響でパウロのことを軽んじる人たちがコリントの教会にも現れてきたようだ。
『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』(コリントの信徒への手紙二10:10)とある。パウロに批判的な人たちがそんなことを言っていたんだろうなと思う。
その人たちは、エルサレム教会から派遣されてきた人たちではないかと考えられるようだ。エルサレム教会はユダヤ人を中心とする教会で、もともとユダヤ教の素地があり、ユダヤ教的な考えが随分残っていたんだろうと思う。旧約聖書にある律法を守らないといけない、割礼をしないといけないなんてことを主張していたんじゃないかと思う。だからパウロのように、割礼は必要ない、大事なのは律法を守るという行いではなく信仰こそが大事だ、なんていう急進的な考えを否定していたのではないかと思う。しかも流暢な説教をする伝道者だったのかもしれない。
そんな人がコリント教会にやってきて、パウロはイエスに選ばれた弟子ではない、自分で使徒だと言っているが12使徒とは違うのだ、そもそも生前のイエスに会ったこともない、なんて言っていたのだろうと思う。そんなことを聞かされるとパウロの言ってることの方が間違っているのかもしれないと思うようになるのも無理からぬことかもしれないと思う。
肉によって
パウロは自分を批判する人たちに反論するためにこの手紙を書いているようだ。
パウロは、「それで私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(5:16)という。肉に従って知るとは、外面的なものによって、外見によって、才能とか地位とか名誉とかそんなことも含めた外見によって知ることはもうしない、と言う。キリストを肉に従って知るというのは、生前のキリストを見たとか話しを聞いたとか、そんな風な知り方をしないということなのだろう。
生前のイエスに実際に見たとか話しを聞いたとか、あるいは12弟子として選ばれたとか、それは肉に従ってキリストを知ることだと言っているんだろうと思う。肉に従ってキリストを知っていたとしても、これからは心で知るというか魂で知るというか、そういう仕方でキリストを知るのだとパウロは言っているようだ。肉に従って知ること、つまり生前にイエスを知っているなんていうのは大したことではないと言って、お前はは生前にイエスに会ったこともないくせに分かったようなことを言うなとパウロを批判する人たちへの反論のような気がする。
和解
そしてパウロは「神はキリストを通して、わたしたちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによってご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(5:18、19)と語る。
神はキリストを通して私たちと和解させてくれたというのだ。和解させてくれたということはそれ以前は和解していなかった、対立していたということだ。この和解とは、キリストを通しての和解、キリストの十字架を通しての和解である。英語の聖書ではfriendになる、つまり友になることと訳している聖書もあるみたい。この和解とは対立がなくなるだけではなく友となることというイメージなのだろう。
そして心や魂でキリストを知り、キリストと結ばれる人は新しく創造された者なのだという。
罪
パウロは19節で「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」と言い、また21節では「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」と語っている。
罪を赦してもらうために献げ物が必要であるというのがユダヤ教の考えであり、パウロも、イエスの12弟子たちもユダヤ人であり、基本的にはそんな考えを持っているんだろうと思う。
イエスの十字架の死を目の当たりにした弟子たちは、イエスの死をどう理解したら良いのか必死に考えたのだろう。そして旧約聖書のイザヤ書などから答えを見つけたのだと思う。イエスの死は自分達の罪のための犠牲の死だと理解したようだ。
ユダヤ人であるパウロにとってもその理解は受け入れやすいことだったんじゃないかと思う。
理屈は分かるけれどもしっくりこない。それはとてもユダヤ教的理解ではないかと思う。
ではイエスの死をどう理解したら良いのかと聞かれると明快な答えはない。徹底的に弱く虐げられてきた人たちの味方となり、権力に抗い続けた結果の死だったのではないかという気がしている。
任務
それは兎に角、パウロは神と私たちを和解させるために、その和解のために奉仕する任務を授けられたと語っている。つまり肉に従ってキリストを知るのではなく、心や魂でキリストを知るようになることで人々が神と和解する、そんな任務を自分は授けられた、キリストの使者とされているのだと語っている。
だから肉に従ってキリストを知ること、つまり生前のイエスを知っているとか、12弟子に選ばれたとか、そんなことは問題ではない、と言いたいんだろうなと思う。そしてそれは、生前のイエスに会ったこともないくせに偉そうなことを言うなとパウロを批判する人たちに対する反論でもあるような気がする。
和解
パウロは、キリストによって世をご自分と和解させて下さった、だから神と和解させていただきなさい、と言う。
神自身が歩み寄って来て下さり、私たちと和解してくださっている。パウロは「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく想像された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と言っている。全部神から出たこと、全部神がしてくれたことだというのだ。
キリストは奇跡を起こしてみんなを驚かせびっくりさせて、ついてこい、ついてこないととんでもないことになるぞと脅すために来たのではない。神と私たちを和解させ、私たちを神と共に生きることができるように、神のために生きるようにするために来られた。そのことを受け入れること、それがキリスト者というものだろう。ただイエスによって赦されて神との正しい関係に生きている者こそがキリスト者なのだろう。そしてその和解の言葉を神は私たちに託されているというのだ。神は私たちのすべてのことを知っている、全てを受けとめてくれている。私たちはその和解の言葉を預けられている。
何よりまず私たちがその和解の言葉を受け入れて、そのことを感謝し喜びを持って生きること、それこそが私たちにとって大事なことなのだろう。
キリストの福音は私たちにもっともっと喜びを与えるもの、私たちをもっともっと自由にするものだと思う。そこから伝道する力も沸いてくる、教会に人を迎えようとする気持ちも沸いてくる、そしてみんなが一緒に生きる喜びも沸いてくるのだと思う。