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礼拝メッセージより
第二の手紙
コリントの信徒への手紙二は、いくつかの手紙がまとめられたものらしい。どうも書かれた順番から言うと、2章14節が一番早い時期のものらしい。書かれた順番から言うと、2章14節〜7章4節、10章〜13章、1章〜2章13節、最後に7章5節以下という順番だそうだ。道理で13節との繋がりが全くないわけだ。
第一の手紙の後、コリントの教会にパウロのことを認めず、パウロが自分のことを使徒であると言っていることにも反発している、そんなパウロに批判的な人たちがやってきたようだ。そしてその人たちの影響で、コリント教会の人たちの心がパウロから離れていくという事態が起こったそうだ。その中でパウロはコリントの教会へ何度か手紙を出したようで、それらの手紙を一つの手紙のようにまとめられたのがこのコリントの信徒への手紙二だと考えられているようだ。
そのいくつかの手紙の中で、一番最初に出したのが2章14節から7章4節までと考えられているようだ。
香り
14節で、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至る所に、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」と語っている。
ローマ帝国では、戦争に勝って戦場からローマへ凱旋する時に、将軍を迎えるために「香」をたくという習慣があったそうだ。それは、兵士たちには勝利を祝う喜びの香りであった。けれどもそこには勝利し意気揚々と行進する兵士たちと共に、敵側の兵士も捕虜として連れられてきていて、その人たちの中には、その後処刑される者もいたそうだ。パウロが16節で、滅びる者には死から死に至らせる香りと言っているように、捕虜となった者たちにとって、それは死の香りだったようだ。
パウロはそんなローマの凱旋の行進になぞらえて、自分はキリストの勝利の行進に加えられていると語っている。そしてその自分がキリストを知るという知識の香りを漂わせているのだと言っている。イエスの十字架と復活は勝利であり、自分はその香りと漂わせている、つまりそのイエスの勝利を告げているということを言っているのだろうと思う。
売り物
パウロは、17節で「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」と言っている。当時町から町へわたり歩き、神の言葉を売り物にするような人たちがいたようで、どうやらその人たちがパウロを認めず批判していたようだ。
この売り物にするということばは、売り歩くとか商うとかいう言葉らしいが、当時はこの言葉が酒を水増しする時に使われた言葉だそうだ。酒に水を加えて薄くして儲ける時に使われた言葉だそうだ。ということはパウロが神の言葉を売り物にしないというのは、神の言葉に余計なものを混ぜて薄めてしまうようなことはしないということらしい。だから誠実に語る、また神に属する者としてキリストに結ばれて語っているというわけだ。
ふさわしい
キリストを知るという知識の香りを漂わせるのにふさわしいのは誰なのか、とパウロは問うている。町々を渡り歩き、神の言葉を売り物にしているような者がふさわしいのか、とパウロはコリントの人たちに問うているようだ。その人たちの方がふさしいのか、それとも自分なのか、どっちだ、どっちが誠実なのか、どっちが真実なのか、しっかりと確かめて欲しい、そう問いかけているようだ。
良い香り
パウロは「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」と言っている。
私たちはキリストの勝利の行進に加えてもらっていると言うのだ。改めて聞くとちょっとびっくりする言葉だ。そんなこと思ったこともなかった。
また私たちは至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださるとも語っている。本当にそんな香りが漂っているんだろうかと思う。
香りを放つにはそれなりの素が必要である。私たちにとってその香りの素は、神の言葉、水増ししてない、毒消しをしてない、純粋なキリストの言葉なのだ。滅びる者には死から死へ至らせる香り、救われる者には命から命へ至らせる香りなんてことをいう。
人を滅ぼしたり生かしたりする、それほどの大切な香りを放つ、あなたがたはそれほど大切な言葉をもらっているではないか、預かっているではないかと言っているように思う。人を救い出す力のある神の言葉をあなたがたは聞いている、そしてそのあなたがたが、神の香りを漂わせるのだと言う。
だからこそ、そこから逸れることがないように、水増しした言葉を語る者に騙されることがないように、真実をしっかりと見極めて欲しいと語っているのだろう。
神の言葉をしっかりと聞くこと、ただ聞こえのいい、耳障りのいい言葉ではなく、神の言葉、イエスの言葉としてしっかりと聞くこと、すべてはそこから始まるのだろう。