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礼拝メッセージより
コリントの信徒への手紙二
コリントの信徒への手紙二は一つの手紙ではなく、五つの手紙が合わせられたものであるという説が有力みたいで、しかもその手紙が順番に並んでいるのでもないそうだ。
コリントの信徒への手紙一16章で、パウロはコリントへ行きしばらく滞在したいという計画があると行っている。しかしコリント教会内でパウロに批判的な人が増えてパウロに対する反感が募り、パウロの来訪を喜ばなくなった。またパウロがエフェソで逮捕され投獄されてしまい、コリント訪問はなかなか計画通りにいかなくなった。そのためパウロは第一の手紙の後、何通かの手紙を書いた。その時の複数の手紙を編集したのが聖書にあるコリントの信徒への手紙二なのだそうだ。
苦難
苦難は聖書の中にもたびたび出てくる。いろんなところで苦難について書かれている。パウロも多くの苦難を経験したようだ。パウロの伝道はいつもうまくいったわけではなかった。というより、うまくいかなかった方が多かったのかもしれない。
イエスについて語ることを禁じられているところにおいて語ることは容易なことではない。実際ピリピではシラスと共にろうやに入れられている。この時は神が地震を起こして彼らを救い出している。ろうやに入れられるという苦しみに遭いながらも、そこから神によって救い出されるという神の力を見せられていく。ろうやに入れられることがどれほど大変ことなのかはよく分らないが、やはりそれは相当つらいものがあったろうと思われる。そのような経験をしてきたパウロがこの手紙の中で、いかなる苦しみの中にいる時でも神は私たちを慰めて下さる、と言っている。どのような苦しみであろうとも神は慰めて下さると。つまり神が慰めることのできない苦しみはないということ。
もちろん苦しみの中にいることは非常につらいこと。神さまが慰めて下さるだろうからと言っても、いつも苦しみの中にいることは非常につらいこと。そもそも苦しみは他の人にはなかなか分からない。周りの者から見れば、そんなことで、と思えるようなことでも、その人にとっては大変なこともある。大人には大人の、子どもには子どもの苦しみがある。はたから見ているとどうしてこんなことで苦しむのか、と思えるようなことでも当人にとっては生きるか死ぬかの大問題ということもある。そしてそんな外から見れば、一見いかにもちっぽけな、人にも恥ずかしくて言えないような苦しみ、そして一人だけで悩まないといけないような苦しみが一番つらい苦しみかもしれないと思う。
慰め
しかし、そのどんな苦難をも神は慰めて下さる、とパウロは言っている。そのようにして神に慰められたから、同じ様に苦しみの中にある人々を慰めることができる、と言っている。しかもあらゆる苦しみの中にある人々を慰めることができると言っている。神から慰めをいただくことで、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる、と言っている。それはキリストの苦難が満ち溢れて私たちにも及んでいるのと同じ様に、慰めもまたキリストによって満ち溢れているからだという。
キリストの苦しみが満ち溢れて私たちにも及んでいるというのはどういうことなのか。キリストに従うということは苦しみを受けるということか。キリストに従う道は苦難の道なのか。確かにそういう面もあるのかもしれない。決して平坦な道だけではないのだろう。しかしだからこそ、そこには神の慰めが溢れるということにもなる。苦しみが大きいほどそのための慰めも大きくならざるをえない。
パウロは私たちが悩み苦しみにあうことは、あなたがたの慰めと救いとなる、と言っている。そして私たちが慰められる時、それはあなたがたの慰めになる、とも言っている。そしてその慰めは私たちが受けている苦難を耐えさせる力となる。慰めは苦難を退ける、苦難を消し去るためのものではないらしい。やっぱり苦難はある、しかし慰めはその苦難に耐える力となると語っている。
パウロの具体的な苦しみはどんなものだったのか、具体的にどういうことだったのかはよく分からない。しかしその苦難はパウロを極度に耐えられないほどに圧迫し、生きる望みさえ失わせるものだったという。死の宣告を受けたような、ほとんど死んでしまうようなものだったらしい。死ぬほどの苦難だったKら、だから死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。もうそれしかなかった。この神に頼るしかなかった。
それで自分を頼りにすることなく、神を頼りにするようになった。ということは、それまでは神を頼りにはしていなかったのか。実はそうだったのかも。徹底的に打ちのめされて初めて自分の無力さに気付くのかもしれない。自分の無力さに気付くことで神の力を知る事ができるのかもしれない。運動会の綱引きのようなものかもしれない。自分で必死に引っ張っている時は気が付かないが、自分が何もできない時に初めて、実は後ろで神が引っ張っていたようなものかも。
その神の力は死にかけた者をも慰め救い出すもの。パウロは死の危険から救い出された経験からそのことを伝えている。そしてこれからも救ってくれるに違いないと、必ず救って下さると希望をもって私たちに語り掛けている。