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礼拝メッセージより
「復活」 2024年5月26日
聖書:コリントの信徒への手紙一 15章12-22節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
復活
復活ってなんだかよく分からない、と言うかほぼほぼ分からないというのが正直な気持ちだ。復活なんてことがあるからキリスト教は信じられないというような話しもよく聞くけれど、その気持ちもよく分かる気がする。そのくせ毎年毎年イースターはやってくるし、よく分からないでメッセージをするってのは悩みの種だった。いや今でも毎年悩みの種だ。
コリントの教会ではキリストの復活を否定することはなかったようだが、死者の復活はないという人たちがいたようだ。今日の箇所での問題もキリストが復活したかどうかではなく、死者が復活するのかどうかという話しだ。
それに対するパウロの答えは、死者の復活がなければキリストも復活しなかったはずだ、というものだ。キリストが復活したんだから死者も復活するということだ、と言っているようだ。
そしてパウロは死者の復活がないとしたらキリストの復活もないと言い、キリストの復活がなかったとすれば、私たちの信仰は無駄であり空しい、と言う。私たちの信仰の原点はこのキリストの復活なのだ、キリストの復活の上に全てが立っている、と言っている。
コリント一の手紙の15章の所では、ずっとキリストの復活について語っている。3節以下では福音の最も大切なことは、キリストが聖書に書いてある通りに私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、そして弟子たちに現れたことだと言っている。
ケファに現れ、ケファとはペトロの事だけれど、12人に現れ、これはイエスの12弟子のことだろう、その後500人に現れ、ヤコブに現れ、すべての使徒に現れ、最後にパウロ自身にも現れたと言っている。
現れたと言っているので、墓に埋葬されたイエスが生き返って、肉体を持って目の前に出て来たような気がしていて、そんなこと本当にあったんだろうかと訝しんでいた。そして死者の復活がなければキリストも復活しなかったはずだと言っているということは、死者も生き返って墓から出てくると言っているのかと思っていた。でもどうやらそういう話しではないようだ。
死者の復活
15:35以下のところで死者がどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのかという話しが出てくる。43-44節に「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と言っている。
要するにパウロの語る死者の復活とは、死者が墓からむくむくと起き上がって生き返るということを言っているのではなくて、死んだ後に霊の体に復活するということを言っているということだ。
キリストの復活
死者の復活がなければキリストの復活もないと語るように、キリストの復活も死者の復活と同じように、自然の命の体から霊の体への復活というようなものだということだろう。キリストの復活とは、キリストが息を吹き返して墓から出て来たということではなくて、霊の体というような形での復活ということなんだろうと思う。
パウロは復活のイエスがいろいろな弟子たちに現れたと書いているけれど、それも霊の体というようなイエスが現れた、そんなイエスとの出会いということなんだろうと思う。
それがどんな出会いだったのかはよく分からない。心の中での出会いというようなものかなと思う。しかしそれは、十字架を前にしてイエスを見捨ててしまい、閉じこもっている弟子たちを立ち上がらせる、そんな出会いだった。またイエスを信じるものを捕らえて処刑する側だったパウロを、逆にイエスこそキリストだと宣教する者へと変える、そんな強烈な出会いだった。
そしてそのイエスとの出会いとは、死のこちら側へ帰ってきたイエスとの出会いではなくて、死の向こう側へ行ったイエスとの出会いということのようだ。そのイエスとの出会いを通して、パウロは人と神との関係は死で終わるものではないということを実感したということかなと思う。
パウロのいう復活とは、死のこちら側へ戻ってきて生きるということではなく、死の向こう側へ行って生きるということのようだ。
希望
イエスが死後そうやって復活させられたように、私たちも死んだ後復活させられるんだとパウロは言っている。私たちは生きている間だけではなく、死んだ後も神との繋がりがある、死んだ後も神の手の中にあるということを言っているようだ。
死は人生の終わりではなくなったということだろう。死は暗闇への、あるいは絶望への入り口ではなくなった。死は神の完全な支配への入り口なんだとパウロは言っているようだ。
死が終わりならば私たちは死に向かって生きていかないといけない。そこが暗闇の入り口だとしたら、そこに向かっていくことはとても辛いことだ。
けれども死が単なる通過点であり、その向こうに神の支配、神の完全なる支配が待っているとしたら、私たちはそこへ希望を持って向かっていけるだろうと思う。
まあでも今は正直言って死後どうなるかなんて切実に考えたこともないし、死者の復活があるからと聞いても、そんなものかという気持ちだ。
死を目前にしたら違った気持ちになるのかもしれないけれど、でも死の向こうが暗闇ではなくて、神の完全なる支配がある、そこに自分も復活させられると思える、そう信じられるというのはとても幸せなことだなと思う。