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礼拝メッセージより
「大切」 2024年5月19日
聖書:コリントの信徒への手紙一 12章31-13章13節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
ペンテコステ
今日はペンテコステ礼拝ということで、使徒言行録2章によると、五旬祭の日に弟子たちの上に聖霊が降って、弟子たちが知らないはずのいろいろな国の言葉で神の偉大な業を語り、ペトロはイエスが救い主であることを大胆の語ったと書かれている。それでこの日が教会の誕生日だという言い方をすることもあるようだ。
聖霊に関しては、福音書ではマリアがイエスを身ごもったのが聖霊によってだと書かれていたり、イエスがバプテスマを受けたときに鳩のように降ってきたと書かれていたり、使徒言行録ではいろんな人が聖霊を受けたと書かれている。
また異言に関しては、使徒言行録10章で、ペトロの語るみ言葉を聞いた異邦人に聖霊が降り異言を話したことが書かれているのと、19章でパウロが主イエスの名によるバプテスマを受けた人たちの上に手を置いて祈っている時に聖霊が降り異言を話したり預言をしたりしたことが書かれている。
ところがそれ以外に異言の話しが出てくるのはコリントの信徒への手紙一だけのようだ。異言が問題となっていたのはコリントの教会だけだったのか、もしくは異言というものが存在したのがコリントの教会だけだったのかもしれない。
愛がない
この手紙に異言のことがよく出てくる。コリントの教会では異言を語ることを殊更に持ち上げるようなところがあったようだ。教会の中で仲間割れがあったようだが、その一つの原因が異言だったようだ。異言を語れる自分は優れた信仰者だとして異言を語らない人達を見下していたんじゃないかと想像する。
異言とは人に分からない言葉で神に語りかけることらしい。異言で祈るととてもいいらしい。らしい、というのは僕は異言は喋れない。神学生の時に異言を語るという人の集会に参加したことがあって、異言を語れるように祈って欲しい人はということで祈って貰ったことがある。でも何も語れるようにはならなかった。やっぱり信仰心が足りないと異言を語ることはできないのかなとか、語れるようになったら自慢できるなんて気持ちがあるからできないのかなとか思ったりしたけれど未だに語れない。
コリントの教会でも異言を語る者が自慢げに語っていたんじゃないかなという気がする。それに対してパウロは、そこに愛がなければ何の意味もない、愛がなければただうるさいだけ、ただの騒音だ、と言うのだ。
そして異言だけではなく、いろんな賜物について、賜物とは神からの賜った物、それぞれに与えられた才能だけれども、自分はこんな才能を持っているということを自慢して誇りに思って、他の人達を見下していたんだろうと思う。
パウロはそんなコリントの人達に対して、あなたがたに最高の道を教えます、と言って愛の話しをする。最高の道を教えますと言うのは、一番大事なことを教えますということだと思う。そしてその一番大事な愛について話し始める。あんたたちはその一番大事な愛がが分かっていないんだよ、あんたたちには一番大事な愛があるのかいと言っているような気がする。
求めよ
パウロは12:31で、「もっと大きな賜物を熱心に求めなさい」と言って愛について語っている。愛は神からの贈り物であって、それを熱心に求めなさいと言っている。
愛とは求めるものだと言うのだ。もともと人間にはないものということなのだろう。元々ないものを持つためにはどこかから手に入れねばならない。そしてそれは神から貰わねばならないものらしい。
ここでいう愛とは自分の中に自然に発生するものではないということかもしれない。
では愛を神から貰うとはどういうことなんだろうか。それは自分が神から愛されるということなのではないかと思う。神から愛されていることを知ることで、自分の中に愛が生まれてくるのだと思う。そういう仕方で私たちは神から愛を貰うのだと思う。結局神から愛を貰うというのは、神から愛されること、愛されていることを知ることなのだと思う。
13:4以下のところでパウロは愛とは何なのかということを具体的に語っている。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
自分にないもの、自分にできないものばかりだ。この箇所の「愛」のところを「私」に置き換えてみたらいいと行っている人がいた。私は忍耐強い、私は情け深い、ねたまない・・・」という風に。全く自分にはあてはまらないなあと思う。全部逆にしたらピッタリあてはまりそうだ。「私は忍耐強くない、私は情け深くない、ねたむ、私は自慢し、高ぶる・・・」
大切
1600年頃に刊行されたキリシタン教理書『ドチリナ・キリシタン』には、「我が身を思ふ如くポロシモ(隣人)となる人を大切に思う事これなり」と書いてあるそうだ。愛するというところを大切にすると訳しているそうだ。愛よりも大切と言う言葉の方がしっくりする気がする。
イエスは一番大事な掟は「隣人を自分のように愛しなさい」である(マルコによる福音書12:31)と言った。
自分を愛するように隣人を愛しなさいと言っている。自分を愛せないと隣人も愛せないということなんだろう。先ずは自分を愛することだ。そして自分を愛するためには、自分が愛されているということを知ることだ。お前が大切だと言う神の声、イエスの声を聞くことだ。その声をしっかりと聞くことだ。
こんな自分なのに、こんな駄目な自分なのにと思う。こんな自分を大切に思ってくれるはずがないと思う。自分が駄目なことは自分が一番分かっていると思う。
でもイエスは、そんなお前が大切なんだ、そのお前が大切なんだと言ってくれている。
大切だというイエスの言葉をもっともっと聞く、そして自分で自分を愛するようになる、その上で隣人を愛するようになる、そうなりたいと思う。