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礼拝メッセージより
分裂
この手紙でパウロは、冒頭からコリントの教会の仲違いを危惧している。そして今日の箇所では霊的な賜物についての話しになっているけれど、どうやら霊的なことが仲違いの原因の一つとなっていたようだ。
12:1で霊的な賜物についてぜひ知っておいてほしい、とある。原文にはここには賜物という言葉はなくて、霊的なもの、霊的な事柄について知っておいて欲しいと語っているようだ。
実際4-6節では、そしてここでは、賜物はいろいろあるがそれを与えるのは同じ霊、務めはいろいろあるがそれを与えるのは同じ主、働きはいろいろあるがそれをするのは同じ神というふうに、賜物、務め、働きについて語っている。でも私たちはそれぞれに与えられた賜物によっていろいろな務めにつき、いろいろな働きをするわけで、結局同じような内容を三通りの言い方で語っているということなんだろうと思う。霊と主と神という風に三位一体を意識しているのかもしれない。
そして8節以下では霊によって与えられるものがいろいろと語られている。知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力。
こんなのを聞くと自分には何もないなあと思ってしまうようなことばかりだ。どれもこれも与えてくれたらいいのにと思う。
当時のコリントの教会にはそんなものが与えられている人がいたということのようだ。少なくとも僕にはそういう力が与えられていると言っている人がいたということなんだろう。
しかし多分、自分にはこんなすごい賜物が与えられているのだと自慢する人たちがいたんだろうと思う。病気をいやしたり奇跡を行ったり、あるいは異言を話せたりできたり、そりゃあ自慢したくもなるだろうし、そういったことができない人たちを見下すような気持ちを持ってしまうだろうなと思う。
当時は特に異言を語ることに重きを置くような傾向にあったらしくて、異言を語れる人たちが一番威張っていたのかもしれない。そしてここに書かれているような賜物を持っていると自慢し、そういうものを持っていない人を見下すことが、教会が仲違いする原因の一つにもなっていたようだ。
いろいろ
パウロはそんな現状に対して、賜物はいろいろあると言って賜物そのものを否定することはしない。けれどもそれぞれの賜物も同じ霊、同じ主、同じ神から与えられたものだと語っている。賜物を英語に訳すとgiftとなっている。
賜物とは神から与えられたもの、つまり神からの贈り物だというのだ。神がそれぞれの人に送った贈り物だというわけだ。しかも人それぞれに違った賜物を貰っているけれど、みんな同じ神から貰っているというわけだ。神がたまたまその人に与えた贈り物なんだから、それを持っているからと言って自慢するようなものではないということだ。
何より、それぞれにいろんな賜物が与えられていろんな働きをするのは、全体の益となるためだと言っている。全体のため、みんなのため、そのために神がそれぞれに賜物を与えられているというわけだ。
言葉の神
そもそも霊と言われると何か人間を陶酔させる、興奮させるもののようなイメージがある。取りついてその人をコントロールするような感じ。そしてそういうものこそが霊の働きだというような言われ方をすることもある。確かにそういう陶酔感に浸れればいいなと思うこともある。いやな自分がなくなって、恍惚になれればいいような気もする。
しかし聖霊の働きは、そういう風に気分を高揚させるとか、陶酔させることとは限らない。あるいはそういうこともあるかもしれない。しかしパウロが聖霊の働きに関して真っ先に語っていることは、聖霊によらなければ「イエスは主である」と告白できないということだ。
教会に集まっている人たちだから、誰もがイエスは主であると告白していたのだろう。そんなのは当たり前、そんなのは大した価値はない、異言を話せたり奇跡を起こせたり、そんなものにこそ価値があるという風に、それが出来る人も出来ない人も思っていたんだろうなと思う。
イエスは主であると告白するということは、そこに聖霊の働きがある、聖霊に導きがあるということであり、実はこれこそが聖霊の一番大事な働きであるということをパウロは言いたかったのかもしれないと思う。
感謝
コリントの教会に必要なのは、感謝なんじゃないかなという気がしている。賜物は神から与えられたものであって、神が思いのままにそれぞれに与えらたものであると理解することも必要だけれど、そうやって賜物、贈り物を神から自分達に与えられた、自分達が貰っているという感謝こそが、コリント教会には足りていなかったんじゃないかなという気がしている。感謝がないから自分を自慢し、まわりを見下したり、逆に自分を卑下したり、羨んだりということになるんじゃないだろうかと思う。
賜物のことだけではなく、あれがない、これがない、あれも足りない、これも足りないと、目の前にあるもの、目の前にいる人ではなくて、ないものやいない人のことばかり見つめているなあと思う。
目の前にいる人のこと、目の前にあるもの、自分に与えて貰っているものにもっともっと感謝しないといけないんだろうなと思った。
私たちが持っているものはすべてあなたからいただいたものです、と献金の祈りにあるけれど、全部貰っているくせに本当感謝してないなあと思う。感謝してないと喜びもないんだろうなと思う。