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礼拝メッセージより
「一緒に食べる」 2024年5月5日
聖書:コリントの信徒への手紙一 11章17-26節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
食事
何度もいう話しですが、タイに行っている宣教師がこんなことを言っていた。
「タイの教会では毎週みんなで楽しく食事をする。大きな教会には食事の時間になると教会に屋台がやってきて、その屋台から食事を買ってみんなで食べる。食事が終わる頃にはアイスクリームの屋台がやってくる。みんなで楽しく食事をするのがタイの教会の習慣である。やはり教会はそんな楽しいところだ。」
日本でもだいぶ前にバプテスト誌かなにかに、ある教会の高校生が、礼拝が終わった後にみんなでケーキを食べるの楽しみだ、と書いていた。その教会は大きな教会ではなくて、自分と同じ世代の者が大勢いるわけでもなくて、そのケーキも小さな子どもや年取った人なんかと一緒に食べていたようだけれど、そうやって一緒に何かを食べるというのを楽しみにしているというのがとても印象に残っている。
嬉しいことやお祝い事があるとみんなで食事をするという習慣は世界中であるみたいだ。一緒に食事をするということは、それだけの繋がりがあるということであり、またそこで繋がりを深めるということにもなるのだろう。教会にとっても一緒に食事をしたり一緒にお茶を飲むのは大切なことなんだろうなと思う。
主の晩餐
当時のコリントの教会でもみんなで食事をする習慣があったようだ。そして今で言う主の晩餐もその時にしていたらしい。
当時の主の晩餐は今のように礼拝の中で小さなパンと杯でするというような、食事とは別の時間に決まったやり方があるというわけではなく、実際に食事をしながら、イエスの十字架の死を記念していたようだ。
その食事はみんなで持ち寄る、今で言う持ち寄り愛餐会のようなものだったそうだ。
ところがパウロはそんなコリントの教会の食事について、ほめるわけにはいかない事柄があるという。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている、というのだ。そこで先ずは教会の中で仲間割れがあると語るが、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません、と語る。この19節は聖書協会共同訳では「あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、分派争いも必要でしょう。」となっている。適格者というのはなんなのか分かりづらいけれど、どの教えが正しいのかという議論は必要なことだ、ということを言っているようだ。
それに続いて20節に「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」とあって、議論は必要と言いながら、それでは一緒に主の晩餐を食べることにならないと言っている。
ここの「それでは」という言葉は、岩波書店訳では「さて」となっていて、話しは変わってというような意味に取った方がいいみたいだ。話しは変わって主の晩餐についてだけれど、というようなことかなと思う。
その主の晩餐のことだけれど、食事の時各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者がいるという始末だ、それでは一緒に集まっても主の晩餐を食べることにはならないと言っているようだ。
当時は教会堂もなくて、誰かの家に料理を持ち寄って食事をしていたようだ。恐らく金持ちの人が他の人の分もということで食事をいっぱい持ってきていたのだろう。そして金持ちは時間的にも余裕があって早い時間から集まっていたのだろう。一方奴隷とか貧しい人達は料理も持って来れなかったり、少しだけだったりして、またそういう人たちは遅くまで働かざるを得なくて、遅れてくるようなこともあったようだ。しかし早くから集まっている者たちが勝手に自分の分を食べて酔っている、しかし後から来る貧しい人達は空腹のままである、そんな状態になっているではないかというわけだ。
教会で一緒に食事をしようというのに、しかもイエスの死を記念する主の晩餐を一緒に食べようというのに、貧しい人達や仕事などの都合で遅れて来る者のことを配慮するということがないではないかとパウロはいう。あなたがたには食べたり飲んだりする家がないのか、それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのかという。待てない程腹が減っているなら家で食べてこいと言うことのようだ。
教会での主の晩餐の食事は、ただ仲間うちでわいわい騒ぐ食事とは違うということ、イエスの十字架の死を思い出し、神が貧しく無に等しく、ふさわしくない者を招いてくれているということを思い出す食事であるということだ。愛される価値のないあなたたちを神は愛して憐れんでくれている、なのに神に愛されているあなたがたが、教会の貧しい人たちのことを配慮しないとはどういうことか、とパウロは言う。
ふさわしくない
27節には、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」とある。
ふさわしくないままで食べたり飲んだりしてはいけないということで、ふさわしくないままの人が主の晩餐を食べてはいけない、そしてそのふさわしくないままの人とはバプテスマを受けていない者、クリスチャンでない者のことだと聞かされてきた。クリスチャンでない者がパンと杯を受けることは許されないのだと考えられてきたようだ。
けれどもこの話しの流れや、その後の33、34節に「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。」とあるように、ふさわしくないままというのは、バプテスマを受けていない者とかいうことではないし、あるいは自分は信仰が足りないとか薄いとか、あるいは罪が深いからと言って、自分はふさわしくないと思っている人のことでもない。そうではなく、遅れてくる人達のことが待てないで食事を始めてしまうことであり、そんな状態で食事、また主の晩餐をしてしまうやり方のことであるということになる。
この「ふさわしくないままで」というのを、岩波書店訳でも聖書協会共同訳では「ふさわしくない仕方で」と訳している。つまりふさわしくない『人』ではなく、ふさわしくない『仕方』、つまり貧しい人達のことを待たずに食べ始めるという仕方のことを言っているということだ。
なので本来主の晩餐には全ての人が招かれていると考えているので、この後の主の晩餐でも神に招かれていると思う人はパンと杯を取っていただきたいと思う。
記念
またここで主の晩餐についてパウロは主から受けたものだという言い方をして、イエスが十字架につけられる夜の食事の際に、わたしの記念としてこのように行いなさいと言われたと書いている。
わたしの記念とはどういうことなんだろうか。イエスが旧約聖書に書かれているような献げ物となってくれたことの記念なんだろうか。イエスが私たちの罪のための献げ物となってくれたことで私たちが赦されたということなんだろうか。旧約時代から牛や羊を殺して献げてきたユダヤ人の感覚だとそういう説明で納得できるのかもしれないし、理屈としては分かる気もするけれど、本当はそうなのかもしれないけれど、僕としては消化しきれない感覚がある。
福音書を見ると、イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をしていて、イエスの弟子たちがそれを見たファリサイ派や律法学者たちからどうしてこんな人達と一緒に食事をするのかと言われたなんてことが書かれている。ファリサイ派や律法学者たちは徴税人や罪人たちとは一緒に食事をすることはなかったということだ。そういう人達を区別し差別していたわけだ。自分達の清さを守るために、罪人である穢れた人達との交わりを避けていたようだ。そして清い自分達こそ神に守られている、神に愛されていると思っていたんだろうと思う。
しかしイエスは罪人とされる人達と一緒に食事をした。ユダヤ教の指導者たちが差別していた人達と一緒に生きていた。良い人間と悪い人間、清い人間と穢れた人間、罪のある人間とない人間、そんな区別は神にはないということ、全ての人間を愛しているということ、神の愛はそれほど大きいということ、そのことをイエスはその生き方を通して示してきた、体現してきた。十字架で処刑されるまでその生き方を貫いた。
主の晩餐の「わたしの記念として」というのは、そんなイエスの生き様を思い出し心に刻むということなんではないかと思う。どうして罪人や徴税人と一緒に食事をするのかと聞かれた時のイエスの答えは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というものだった。罪人を招くために来た、というイエスの言葉、イエスの思いを聞き直すこと、罪人であるこの私を招いてくれている、受け止めてくれている、愛してくれている、そのことを改めて噛みしめる、それがイエスを記念することなのではないかと思う。
教会とはそうやってイエスに招かれた罪人の集まり、そして一緒に食事をする集まりということなんだろうと思う。なのに、教会の中で貧しい人達のことを配慮しないで、逆に疎外して軽んじるようなことをするとは何事か、それはイエスの思い、イエスの生き様に完全に逆らってるじゃないか、パウロはそう言っているんだろうと思う。
吟味
と、人様の教会の批判は気楽に聞けるけれど、自分自身はどうなのだろうか。私たちは教会にやってくる人たちをどんな風に見ているだろうか。いつの間にか私たちも、教会に来る人たちのことを品定めするようなところが多いのかもしれない。あるいは勝手な色眼鏡で見ていることも多いのかもしれない。そもそも他の人のことをちゃんと見ているんだろうか。
主の晩餐とは、イエスの生き様を見つめ直し、イエスの背中を見つつその後をしっかりとついて行ってるかどうか、イエスの道とは違う道を進んでいないか、そしてイエスの前に出しゃばっていないか、そして私たちが共に神に愛されこの教会に集められていることを喜んでいるのかどうか、そのことを考え直す時でもあるのだと思う。