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礼拝メッセージより
「何人かでも救うため」 2024年4月28日
自由
昔聞いた話。ある女性が結婚した相手に子どもがいた。その子とのコミュニケーションがなかなか取れないでいたが、やがてその子がバイクに乗るようになった。暴走族のようにブンブンいわせてしょっちゅうバイクで走っている。母親はその子の気持ちが分からなくて、どうしたらいいかと悩んでいた。そこである日子どもに言ったそうだ。「バイクに乗るのがそんなにいいのか。そんなにいいならお母さんもその良さを知りたいから後に乗せてくれ。」そして本当にバイクの後に乗せてもらって走ったそうだ。そうするとバイクに乗る気持ちよさが少し分かったような気がして、親子の関係も少し親密になったようなことを言っていた。
真理
このコリントの信徒への手紙一の8章には、偶像に備えられた肉を食べていいかどうかということについて書かれている。当時のコリントでは、他のギリシャの都市と同様に、ギリシャの宗教の強い影響があった。祭りの時には、ギリシャの神々にささげられた物を、後でみんなで食べるという習慣があったそうだ。そんな時に、偶像にささげられたものを食べることが許されるのかどうかということがコリントの教会の問題となっていたらしい。
8章を見ると「知識を持っている」と言われる人たちが登場する。それは信仰的にいろんなことをよく分かっていると思っている人たちということのようだが、彼らはもともと偶像というもの自体が本当はないものであり、そこにささげたと言ってもそのささげものが汚れるとかどうにかなるというものではないので、それを食べてもいっこうに差し支えないと考えていたようだ。偶像に供えたものを食べると汚れるのは、それを食べたら汚れると思っているから汚れるのだ、と考えていた。そしてその考え方自体はパウロも賛成している。
けれどもパウロは、この知識が誰にでもあるわけではない、と言う。どんな肉も汚れることはないというのは真理である、しかしその真理に到達できない者もおり、つまりそうは言われてもやっぱり心配だったり気になったりする人もいる。だからそんな人たちのことも配慮しなければいけない、と言うのだ。
「偉い人たちは食べても構わないというけれど、本当に偶像に供えた肉を食べてもいいのだろうか」と悩んでいる者に対して、コリントの教会の信仰心の厚い人たちは、それは問題ないから食べなさい、どうして食べないのかと言っていたのだろう。
パウロは自分は自由な者である、何者にも縛られていないと言っている。キリストを信じることで、いろんなしがらみから解放されて自由になったということだろう。
いろんなしきたりや慣習があって、まるで迷信としか思えないようなことにも随分縛られている。そんないろんな束縛から解放されて自由になること、自由を得ることはすばらしいことであり、うれしいことだ。
でも自分が自由になったからと言って、偶像に供えた肉を本当に食べていいんだろうかと悩んでいる人に対して、食べてもいいに決まっているから食べるべきだ、と言って食べさせるとしたら、それは悩んでいる人を大事にしないこと、逆に苦しめることになるではないかとパウロは言っているようだ。
真理を知ることはすばらしいことだ。しかしその真理を押しつけることで周りを傷つけるとしたら、その真理は一体なんなのだ、とパウロは問いかけているのだろう。真理を主張することで、隣人を苦しめてしまうならば、その真理はただの独りよがりでしかない、あるいは周りの者にとってはただただ迷惑な真理でしかなくなってしまう。
自分の信じる信仰や真理を自慢するよりも、主張するよりも、弱いと言われる者たちのことこそを大切にし愛すること、それこそが大事なことだと言っているようだ。
自由
そして今日の9章でパウロは、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」と言う。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった、律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになった、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになった、弱い人に対しては、弱い人になった、という。
信仰を持つということは自由になるということでもあるのだろう。いろんな束縛から解放されて自由になれる。けれどもパウロはそこで自由だから奴隷になったという。自由だからどんな人とも同じになったという。
子どもが暴走族のようになったというときに、子どもを叱りとばすことはできても、その子どものところへ出ていくことはなかなかできない。間違いを犯した人に対して、その間違いを正せ、そして正しいこちら側へ来なさいとは言っても、どうしてその人が間違いを犯したのかなんてことまではなかなか考えられれない。
コリントの教会のいわゆる信仰深い人たちも同じように思っていたのだろう。あなたも聖書を良く読んで信仰深くなって私たちの域に達しなさいとは思っても、その人と同じ所へ立とうとすることもなく、その人の苦しみも理解できないでいたのだろう。相手を理解するのではなく、あいつは駄目だなあ、何も分かっていないと言って、自己満足に浸っていたのかもしれないなあと思う。
弱くなる
パウロは、弱い人に対しては弱い人のようになったと書いてある。ここの原語は「ように」という言葉はないそうだ。だから弱い人に対しては弱い人になった、とパウロは書いているそうだ。
今の社会は強くなることを目指しているようだ。力を付けて誰よりも強くなることを目指している。誰にも負けない力を持つことを目指している。そして弱い者を踏みつけてでも、自分がどれほど高くなれるか、立派であることができるかということばかりを考えている。
けれどもパウロは、弱い人に対しては弱い人になる自由を、すべての人に対してはすべてのものになる自由を持っているという。そしてそれは何とかして何人かでも救うためであるというのだ。そしてそれは自分もともに福音にあずかる者となるためであると言うのだ。
周りの目を気にしてばかりいては、母親が息子のバイクの後に乗ることは出来ない。しかしそれが出来たのは、何とか息子との関係を持ちたい、息子のことを分かりたいという思いがあったからだろう。
パウロが弱い者になったのは、弱い者をなんとか救いたいと思ったからだ。そしてそれはパウロにとっては何よりの喜びでもあったのだろう。自分の正しさや立派さを威張ることよりも、その人のところへ出かけていき、同じ所に立つこと、つまりくだらないと思えるようなことで悩んでいる人と一緒に悩み、そんなことどうってことないだろうと思えることで苦しんでいる人と一緒に苦しむということなんだろう。その人の悩みや苦しみを大事にしていくことが、その人を大事にしていくことなんだろうと思う。
そのためには、先ずはその人の話しをしっかりと聞くことなんじゃないかな。
聞いて下さい(「Loving Each Other」より)
『私の話しを聞いて下さい、と頼むと
あなたは 助言をはじめます
私は そんな事を望んではいないのです
私の話しを聞いて下さい、と頼むと
あなたはその理由について話し始めます
申し訳ないとは思いつつ
私は 不愉快になってしまいます
私の話しを聞いて下さいと、頼むと
あなたは 何とかして 私の悩みを
解決しなければと いう気になります
おかしなことに
それは私の気持ちに反するのです
祈ることに 慰めを見出す人がいるのは
そのためでしょうか
神は 無言だからです
助言したり調整しようとはしません
神は聴くだけで
悩みの解決は 自分に任せてくれます
だから あなたも どうか
黙って 心静かに私の話しを聞いて下さい
話しをしたかったら 私が話し終わるまで
少しだけ 待って下さい
そうすれば 私は必ず
あなたの話しに 耳を傾けます
何人かでも救うため
全然聞いていない、といつも怒られている。
パウロはできるだけ多くの人を得るために、すべての人の奴隷になったと語っている。そして何人かでも救うために、すべてのものになったと言っている。お前にはなんとかしてその人を救いたい、その人のことが心配だ、大切だという思いがあるのか、そう問われているような気がしている。