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礼拝メッセージより
論敵
神学校の先生の論文に、この言葉はパウロの論敵の言葉か?、というようなのがあった。パウロの手紙の中には何の説明もなしに議論している相手の主張が入り込んでいるらしい。パウロの時代の人にとっては、それが誰の主張なのかすぐ分かったんだろうし、分かるという前提でパウロも語ったんだろうけれど、今となってはよく分からない部分もあるらしい。それでこの言葉はパウロの主張か、あるいは論敵の主張かという議論になっているようだ。それによってパウロ自身何が言いたいのかが全く変わってしまったりする。
自由?
今日の聖書箇所でもいろんな主張が入り混じっているようで訳がわからなくなってしまいそうだ。
今日の聖書は偶像に供えられた肉についての話しだが、コリントの教会の中で食べていいのか悪いのかということが問題になっていたということらしい。コリントはギリシャにある貿易港で各地から人がやってきて、いろんな宗教が入り乱れていたらしい。そして動物を殺して供え物とすることも多くて、その肉を引き取って市場で売りに出されるというようなこともあったようだ。というか市場に出回る肉のほとんどは異教の神殿にささげられた動物の肉だったという説明もあった。
その肉を食べてもいいのか悪いのか、そんなことがコリントの教会の中でも問題になっていたようだ。弱い者はその肉を食べることをためらい、強い者は食べていたと書かれている。偶像崇拝を拒否する強い信念を持っている人の方がそんな肉は食べないと主張するのかと勝手に思っていたけれど違うようだ。
私たちにとって神は唯一であり偶像なんてのはそもそも存在しない神なので、その偶像に供えたといっても自分達にはなんの関係もない。それは真理だ、けれどこの知識がだれにもでもあるわけではない、とパウロは言っている。
8節に「 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」という言葉があって、だったらどこの肉だって気にせず食べなさいという結論になるはずじゃないかと思っていた。けれどこの言葉は9節にあるように、これは「あなたがたのこの自由な態度」と言われているように、これはコリント教会の一部の人たち、ここで言われている強い人たちの主張していた意見のようだ。偶像なんて本来ないのだから、偶像にささげた肉だろうが関係はない、そんなものは気にする必要はない、そんなことを気にするようではまだまだ信仰が浅いとか、理解が足りないとか、真理が分かっていないとか、そんな風に言っていたのかなと想像する。
しかしそこまで割り切れない人もいるんだ、とパウロは告げる。弱い人は今までなじんできた習慣にとらわれて、偶像に供えられた肉だということで良心が弱いために汚されると言う。
良心が弱いために汚されるというのはどういうことかよく分からないけれど、その肉を食べることが偶像崇拝ということになるんじゃないかと心配になるってことかな。
また、知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのをだれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまうかもしれない、そうすると弱い人が滅びてしまう、なんてことも言う。
この「良心が強められて」というのは岩波書店の訳では「教育される」となっていて、どうやら皮肉を込めた言葉のようだ。自分自身が納得してそうするんじゃなくて、そう言われてしぶしぶそうする、強い人たちの主張に逆らえなくて、本当はいやだけど食べるというようなことのようだ。
納得しないうちに食べさせるようなことをしているとすればそれは相手を滅ぼしているに等しいということなんだろうか。
ちょっと極端な言い方をしているような気もするけれど、自分の正しさを主張することで、相手に自分と同じことを要求するような圧力をかけてしまうようなことになっているとしたら、それはとても危険なことであるとパウロは言っているような気がする。
愛があるか
「理屈は一番低い真理です。」(八木重吉)という言葉があるそうだ。私たちは自由にされている、何を食べてもいい、偶像なんてないんだから関係ない、それは真理だろう、その理屈は全く正しいことだろう。
しかし理屈にあっているからそれが一番の真理とは限らない。いやむしろそれは一番低い真理なのだろう。
そこに愛があるのかどうか、パウロはそう問いかけているんじゃないだろうか。
結局は1節にある、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」というのがパウロが言いたい結論なんだろうなと思う。
知識があることは勿論すばらしいことなんだろうけれど、もしそこに愛がなければ何の意味もない、何の役にも立たない、むしろ人を高ぶらせるものでしかなくなると言っているようだ。
パウロはこの手紙の初めの方でコリントの教会の中で仲たがいしていることを書いているけれど、その原因も結局は愛がないことだと言いたいのかなと思う。
低い真理
神についてキリストについて聖書について、いろんな知識を増やすことも大事なんだろうけれど、実はそれよりも神に愛されていることを知ること、そして隣人を愛すること方がよほど大切なことだということなんだろうなと思う。
それは親子の関係に似ていると思う。子どもは親がどんな親でどんな生き方をしていたかなんていうような親について知ることが大切なことではない。そんなことよりも親から愛されたことを知ること、愛を受けること、それこそが大切なことだ。
神に愛され神から愛をもらうこと、それこそが教会にとって一番大切なことなんだろうと思う。そしてその愛をもって生きること、それこそが一番大事なことだ、とパウロは告げているのだろう。
あなたは神に愛されている、あなたはその愛を受け取っているか、そして隣人を愛しているか、そこに愛はあるか、と問われているようだ。
愛するよりも、知識とか理屈とか、そんな低い真理を振りかざしているのではないか、それはただの自己満足ではないか、そのことで弱い人たちを傷つけているのではないか、11節にあるように、それではあなたの知識によって弱い人が滅びてしまうとパウロは言っている。そしてそれは兄弟たちに対して罪を犯し、キリストに対して罪を犯すことなのだ、と相当強い調子で語っている。
あなたはそんな低い真理を振りかざして誰かを傷つけてはいないか、そう問われているようだ。