【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
分派
コリント教会は紀元51年頃パウロが伝道したことから生まれた教会だったそうだ。パウロは1年半ほどコリントにいて、その後をアポロが引き継いだそうだ。
この手紙の中でパウロが、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。」と書いているように、パウロとアポロが対立していた訳でもなく、またまるで違ったことを話しをしていたわけでもないようだ。
なのに教会の中で、わたしはパウロにつくとかアポロにつくといった分派が起こっていたというのだ。
最初からいてパウロに指導された人たちと、アポロがやってきてから教会に加わった人たちとがいて、どっちの先生の方が正しいとか優れているとか言っていたということだろうか。
パウロの説教はわかりにくかったらしい。コリントの信徒への手紙二の中で、パウロについて「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(第二コリント10:10)という人がいたと書かれているように、パウロの話しはわかりにくかったらしい。
聖書の中にはパウロの手紙がいくつもあるけれど、なんだか分かりづらい。この手紙もとても分かりづらい。手紙は重々しく力強いという声もあったようだけれど、正直言って何言ってるのかよくわからないところがいっぱいある。パウロはこんな調子で説教していたんだろうと思うけれど、そうするとつまらないとか分からないと思う人も結構いたのかなと思う。
そこに雄弁なアポロがやってきて分かりやすい話しをしていたらパウロよりもアポロを評価するという人もいたんじゃないかと思う。それに対して最初からパウロから教えを受けた人たちは面白く思っていなかったんじゃないか、なんて想像している。
肉の人
はっきりしたことは分からないけれど、そうやって教会の内部で仲違いして争っていることに対して、パウロはあなたたちは肉の人だと言っている。
肉の人とはキリストとの関係で乳飲み子である人々のこと。乳飲み子には乳を飲ませて固い食物は与えない。しかしコリントの教会の人たちはその乳飲み子のように乳が必要な者だと言う。だから乳を与え続けるという。
教会のいろんな役割も担ってきた人たち、もう何年も教会に通っている人たちにとって、あんたらはまだ肉の人だ、乳飲み子だなんて言われることはとてもショックなことだったろう。
彼らにとって乳はもうすでに必要ないものと思っていたらしい。それなりに成長していると思っていたのだろう。しかしパウロは彼らにはそれがまだ必要だと言う。
この手紙でパウロは十字架のイエスを伝えた、それだけを伝えたなんてことを言っている。コリントの教会の人は、それは充分に知っている、今更聞かなくても知っている、と思っていたのではないかと思う。しかしパウロはその十字架のイエスを伝え続けたというのだ。私はもうそれしか知らない、というほどにそのことにこだわりそれだけを伝えたと言っているようだ。しかしその大事なものをコリントの教会の人たちにはまだ充分に取れていない。教会にとって基本である乳もまだ十分に飲めていない。だからただの人でしかない、肉の人でしかない、と言っているようだ。
十字架
そんなコリントの教会の人たちに対してただ十字架のイエスを伝える。十字架のイエスだけを伝えようとする。彼らの仲たがい、争いに対する答えがそこにあるということだろう。教会にとっての基本がそこにあるということだろう。イエスという土台がしっかりしていないから、そこから争いやいさかいが起こるということだろう。
イエスはただすべてを受け入れ、すべてを包み込んでいった。
そして実際私たちもそうして包み込まれた者同士だ。すべてを受け入れられた者同士だ。間違いも罪も持っているのに憐れんでもらって、愛してもらっている者同士だ。もし仲たがいしているなら、争っているならそのことを忘れてしまっているのではないか、十字架のイエスを忘れているのではないか、一番大事なことを忘れているのではないか、自分のことばかり考えているんじゃないのか、自分の正しさばかり求めているのではないか、そして相手を愛していないのではないかとパウロは語り掛ける。
愛すること、仕えること、そんな大事なことを忘れているから、ないがしろにしているからこそ仲たがいが起こるのだ。大事なことを抜きにして、どれほどいろいろな知識が増えたとしても、いくら偉そうなことを議論をしたとしても何にもならない、とパウロは言う。
成長
成長させて下さるのは神である、と語る。私たちは自分で知識を増やし自分で鍛え、成長すると思っている。あるいはそうして成長したという気になっている。しかしパウロは成長させるのは神だと語る。神が成長させて下さるのだ。
では成長とは何か。成長というといろんなことをいっぱい知ることのように思っていた。聖書や神や教会に関する知識をいっぱい知ることが成長かと思っていた。けれども実は反対かもしれないと思う。成長とは余計なものを捨て去って、本当に知るべきことがなんなのかを知ることかなという気がしている。知識を増やすことではなくて、ほんとに大事なことは何なのかを知ることこそが成長なんじゃないかという気がしている。その大事なこととは十字架のイエスだとパウロは言っているようだ。
違い
すべてを受け止めてイエスは生きまた死んでいった。そのイエスの生き様、死に様をしっかりと見つめることこそが大事なんだろうと思う。
教会には色んな人がやってくる。みんな違いを持っている。みんな違っている。その違いを乗り越えるには、ただイエスをしっかりと見つめることなんだろう。十字架のイエスをしっかりと見つめることなんだろう。いつも一緒にいて、この間違いだらけの私をしっかりと受け止め抱きかかえてくれている、そのイエスをしっかりと見つめていく、そこで初めてそれぞれの違いを認め合い、尊重し合っていけるのではないかと思う。