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礼拝メッセージより
コリント教会
コリントの教会はパウロが伝道したことからできた教会で、パウロはいわばコリント教会の父と言われるような立場だった。そのパウロが、コリントの教会の現状を知って出した手紙がこの手紙だ。
手紙の冒頭に挨拶と感謝の言葉があって、今日の箇所からが本題みたいな内容になっているけれど、一番最初に書かれている内容は、コリント教会が内部で仲たがいをしていることについてだった。
分派
ここではパウロにつくという人たちと、アポロに、ケファに、キリストに、という風に4つの分派があると書かれている。
パウロに・・主として異邦人からなる分派。パウロはキリスト者の自由の福音と律法の終わりとを説いていたので、この分派に属する者たちは自由のみを強調して、自分勝手になにやってもかまわないと主張していたんじゃないかと考えられるという説明があった。
アポロに・・彼はパウロがコリントを去った後、入れ替わりに来た教師。使徒言行録18章24節〔さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。〕に登場する。パウロは話しがあまりうまくなかったらしいが、アポロは人々を魅了するような派手な説教をしたようだ。というのも彼の出身地であるアレクサンドリアは、当時知的活動の中心地で、そこ出身であるアポロは知的な魅力的な説教をしたようだ。
ケファに・・ケファはペトロのユダヤ名。ペトロはエルサレム教会の中心人物であって、この分派はユダヤ人たちで、ユダヤの律法を守るべきであると主張していたのではないかと思われる。
キリストに・・キリストにつくのは何も問題ない気がするけれど、あまり定かではないが、自分達にはキリストが直接語り掛けるといったような熱狂主義的なグループだったのかもしれないそうだ。
とにかくコリントの教会にはそんなふうに4つのグループがあった。指導的な立場の人の名を借りて自分の主義主張を振りかざして言い争っていたようだ。しかし当のパウロとアポロとケファとキリストが別に争っているわけではない。パウロはアポロの働きを認めていることがこの手紙の中にも出てくる。なのに、自分達はパウロ派だ、アポロ派だと争っているのだ。いろんなスポーツで、別のチームのファン同士の揉め事があったりするけれど、でも選手同士はチームが違っても仲が良かったりするけれど、それと似ているような気もする。
十字架とバプテスマ
パウロはそうやって争っている者たちに向かって語り掛ける。1:13 「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」なんて語る。
教会の中で仲たがいし争うのは、キリストをいくつにも分けてしまうことと同じである、ということだ。
兄弟たち
パウロからしたらお前たちはなにをやっているんだ、と言いたくなりそうな出来事なのではないか。パウロはコリント教会の父と言われるような立場である。しかしパウロは彼らに対して、「兄弟たち」と呼びかける。教会の中で仲たがいしている者たちに向かって「兄弟たち」と呼びかける。もうこれだけでパウロの言おうとしていることは語り尽くされているのかもしれない。「あなた達は兄弟なんだ、兄弟としてひとつの教会に神から呼ばれ、集められている者同志なのだ」と。
家族のように暖かい関係ということもあるかもしれないが、それよりも、家族のように兄弟姉妹のように何があっても、どんなことがあっても面倒を見続ける、どこまでも心配する、どんなに仲違いしても切れない関係として兄弟、という言い方をしているのだろうと思う。
パウロはコリント教会の現状を知って、悲しみを持ってこの手紙を書いているような気がする。怒りをもって叱っているのではなく、仲たがいし争っている現状を悲しんでいるような気がする。
仲違い
しかしどうして仲たがいしてしまうのか、争ってしまうのか。
もちろん教会だって人間の集まりだからいろんな違いがあるのが当然だ。違いがない方が不自然だ。けれどその違いを認め合うと言うことがなかなか難しことでもある。自然にできるというようなものではなくて、意識しないと出来ないことなのだろうと思う。
教会の目的
『一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としての纏まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。(「神の風景」藤木正三)』
ハーモニー
聖書の小見出しに一致の勧めとかいてあるけれど、教会の一致は、同じ服を着ることでも、同じ顔をすることでも、同じ考えになることでもない。ただキリストの下に集まることなのだろう。そしてこのキリストに神に共に聴くことなのだろう。そしてそのことを大切に思うこと、それが教会における一致なのだと思う。
一致というと同じになることというようなイメージがある。同じにしないといけないとなると、どっちが正しいとかどっちが優れているとか、あの人はおかしいとか、反対に自分は駄目だとかいうことになってしまう。
一致というよりも調和、ハーモニーと言った方がしっくりする気がする。よく言われるように、ハーモニーは違っていないといけない、みんな同じになったらハーモニーにならない。お互いを尊重し大事にする、そうすることで初めて素敵なハーモニーができる。
教会とはそういうところなのだろう。違いを持ったままのお互いを大切にし、尊重し、素敵なハーモニーを作ることこそが教会の目的なのだろう。