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礼拝メッセージより
イースター
今日は召天者記念礼拝。先に召された方たちが読み聞いてきた聖書の言葉を共に聞いていきたい。また今日はイースター、復活祭。ヨハネによる福音書20章はイエスの復活のことが書かれている。
1節では「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」とある。
週の初めの日とは日曜日のことで、イエスが日曜日に復活したということでほとんどのキリスト教会では日曜日に礼拝している。イエスが十字架に掛けられたのは金曜日でその日の夕方に埋葬されたことが19章に書かれている。
ユダヤでは日没に一日が終わりそこから新しい日が始まる。夕方に埋葬されて日没になると次の日が始まる。次の日、つまり土曜日が始める訳だけれど、ユダヤでは土曜日は安息日であって労働してはいけないと律法に決められていて料理をすることもせず、少し遠くへ外出することもままならなかったようだ。そうやってただ静かに祈って何もしないのが安息日だった。そしてその日の日没になると安息日が終わり週の初めの日である日曜日が始まり、安息日には禁止されていたいろんな活動が出来るようになる。けれども日が沈むとすぐに暗くなるので結局動けるのは朝早くになってからということになる。
マグダラのマリアは聖書によるとイエスに悪霊を追い出して貰った人と書かれている。今で言えば精神的な病気を癒して貰ったということではないかと思う。マリアはその後イエスを慕ってイエスに従っていたようだ。当時は病気とか障害を持っていることは罪を持っている証拠であると考えられていて、罪人であるとか汚れていると言われて社会の除け者にされていたそうだ。それがユダヤ教の掟だった。しかしイエスは罪人とか汚れが移るとか言われて社会から除け者にされている人たちのことを大事にし、そんな人たちのところへ出掛けていき、そんな人たちに寄り添って生きていた。
ユダヤ教の指導者たちは旧約聖書に書かれている律法と言われる掟を命よりも大事だと言っていたようだけれど、その律法よりも命が大事だ、一人ひとりが大事だと主張するイエスは、律法を軽視し神を冒涜する反逆者と思われていたようだ。
そんなことからイエスは十字架にかけられて処刑されてしまった。イエスに従っていた弟子たち、またイエスを慕って着いてきていた人たちにとってそれは計り知れない衝撃だったに違いない。マグダラのマリアは処刑されてもなおイエスのことを気にかけていたので日曜日の早朝に墓へ行ったということだろう。
当時の墓は洞窟のようなところに遺体を納めて入り口を大きな石で塞いでいたそうだけれど、マリアが墓に行ってみるとその石が取りのけてあったと書いてある。そこでシモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ知らせに行ったと言うのだ。
天使とイエス
墓が空っぽであることを確認した二人の弟子たちは家に帰っていったけれどもマリアは墓の外に立って泣いていたという。弟子たちに知らせたマリアはまた墓に戻ってきて、弟子たちが帰ったあと初めて墓の中を見たことになる。
そこで二人の天使と話をして、主が取り去られました、なんて言いながら後を振り向くとイエスが立っていた。最初はイエスと分からず園丁だと思っていた、イエスが「マリア」と呼ばれると、マリアは振り向いて「先生」と言って縋り付こうとした、そして弟子たちへの伝言を頼まれ、マリアは弟子たちのところへ言って主を見たと告げて、イエスの伝言を伝えたというのが今日の話しだ。
出会い
聖書には四つの福音書があって結構違うことが書いてある。復活についても結構違っている。細かく見ているとちょっと変だな思うこともいっぱいある。福音書はイエスが十字架につけられてから何十年かたってまとめられたもので、歴史的な事実を書いてあるというよりも、それを下敷きにしてイエスとはどういう方であるのか、そしてそのイエスと自分達とはどういう関係なのか、そんなことを分かりやすく伝えようとしているのだろうと思う。
イエスが復活したと書かれているけれど、これを読む私たちにとって大事なのは、イエスがその時どのような身体でどうやって復活したのかということよりも、今私たちとイエスがどういう関係にあるのかなのだと思う。
マグダラのマリアに復活のイエスが現れたと書かれていて、その後他の弟子たちにも現れたことが書かれているけれど、このことを通して私たちもイエスと出会っているのだということを伝えているのだと思う。
絶望
かつてイエスに従っていた弟子たちはイエスに期待をかけていた。イエスが世の中を変えてくれる、自分達の国を建て直してくれる、そんな希望を持って自分の人生をかけてついて行っていたようだ。命をかけてイエスについていくと思っていた者もいたようだ。
ところがイエスは時の権力者に捕まり十字架で処刑されてしまった。自分の人生の師匠とあがめていた人が重罪人と同様に、十字架という惨めなむごたらしい方法で処刑されてしまった。
弟子たちは従っていくべき師匠を悲惨な十字架で亡くしてしまい、進むべき道を見失っていた。またその師匠を見捨てて逃げてしまい、そんな自分自身のだらしなさや不甲斐なさにも打ちのめされてもいたに違いないと思う。おまけに処刑された犯罪人の弟子という汚名まで着せられることになった。これから始まると思っていた明るい未来が突然断ち切られてしまったような、そんな状況に立たされていたのだろうと思う。どうしていいか分からない、何をする気力も元気もなくしていたんだろうと思う。
よみがえり
しかし弟子たちはそんな絶望の中で、かつてのイエスの姿を思い出してきたんだろうと思う。
イエスは病気の者や罪人とされた者、汚れていると言われている者、そんな社会から見捨てられ除け者にされている者のところへ出かけていった。誰からも愛されていないと思っている人、自分には何の価値もないと思っている人、あるいは人生に挫折し失敗しうちのめされている、そんな人のところへ出掛けていき、あなたを愛している、あなたが大切なんだと伝え、絶望している人達に生きる力を与えてきた。
弟子たちはイエスの十字架の死というその絶望の中で、かつて聞いたイエスの言葉を聞き直し、かつて見たイエスの振る舞いを見つめ直したのだろうと思う。弟子たちはそうなって初めてイエスの本当の姿を発見したんだろうと思う。絶望しているからこそイエスの言葉の意味やすごさが身に染みて分かったんだろうと思う。
そこでかつてのイエスの姿がよみがえってきたのだと思う。それこそが復活のイエスとの出会いだったのではないかと思う。そんな心の中でのイエスとの出会いによって弟子たちは生きる力、もう一度立ち上がる力を与えられた。それこそが聖書の伝える復活のイエスとの出会いなのではないかと思う。
先に召された方たちも、それぞれにいろんな苦しみを経験して生きてきたことだろう。そしてその中でイエスの言葉を聞いて力を与えられて慰められてきたことだろう。聖書を通して、イエスの生き様を見て、イエスの言葉を聞いてきたことだろう。この方達もイエスと出会ったのだ。
名前を呼ばれている
今日の聖書ではマグダラのマリアが泣いていて後にいたのがイエスだと分からなかったことが書かれているが、これはこの時の弟子たちみんなの姿であったんだろうと思うし、これはここに写真がある先に召された人達、そしてまた私たちの姿でもあるように思う。私たちが気付かない時に、もうイエスは私たちのすぐ後にいてくれているということなのだと思う。
自分に気付かないマリアに対しイエスが「マリア」と声を掛けたように、イエスは気付かない私たち一人一人に声を掛けてくれているに違いないと思う。もちろん実際この耳で声を聞くこともできないけれど、イエスの声は言わば心の耳に聞こえてくるのだと思う。
そのイエスは見えないし、声を聞くことも出来ない、しかしいつも一緒にいてくれる。お前の事が大切だ、お前はひとりぼっちじゃない、そう語りかけてくれている。そしてそれを信じられるということはとても嬉しいことだ。
マリアと呼びかけたように、イエスは私たち一人ひとりを、その名前で呼ばれているのだと思う。○○よ、私はあなたが大切だ、あなたは素晴らしい、あなたが大好きだ、私はいつもあなたと一緒にいる、そんな声が聞こえてきませんか。
先に召された方達が聞いてきたそんなイエスの声を、私たちも聞いていきたいと思う