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礼拝メッセージより
ギリシア人
それは過越祭の少し前だった。イエスはその数日前になるのだろうか、ラザロをよみがえらせたことが書かれているが、その時からユダヤ教の中枢の者たちから命を狙われるようになっていた。11章57節には、「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」と書かれている。
その頃、祭りのためにエルサレムに来ていたギリシア人がいた。過越祭のためにわざわざエルサレムに来るということは、ユダヤ人として生まれたのではないが、後にユダヤ教を信仰するようになった人なのだろう。彼らがイエスに会いに来た。そのために先ずフィリポに頼んだと書かれている。ガリラヤ地方は当時は幹線道路が交差していて国際商業が盛んだったようで、多くの人がアラム語やギリシャ語、ラテン語を話せたそうだ。フィリポと後に出てくるアンデレの二人の名前もギリシア名だそうで、彼らはギリシャ語が達者だったということで、ギリシア人たちは先ずフィリポにイエスとの面会をお願いし、フィリポはこの福音書では一番最初の弟子となったと書かれているアンデレに話したということのようだ。
時が来た
その後のイエスの話しはそのギリシア人たちと弟子たちに向けての話しなのだろう。
人の子が栄光を受けるときが来た、とイエスは語った。人の子とは、救い主のことを意味する言葉でもあり、イエスが自分のことを指して言う言葉でもあった。その人の子が栄光を受ける時が来たとイエスは語る。普通栄光を受けるなんていうとみんなから賞賛されるようなことをイメージする。けれどもすぐ後に麦の話しが出てくるけれども、そこでは一粒の麦が死ねば多くの実を結ぶという話しをしている。
種は土の中で殻を破って根を出したり芽を出したりしないと実を結ぶことはない。そうやって根を出し芽を出すと元の種はもはや種ではなくなっている。そういうふうに種から芽が出ることを古代人は種が死ぬと考えていたそうだ。イエスもそのことを言いつつ、今後自分の身に起きることを予想していたということだろう。
さらに、自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る、と言う。ここで「自分の命」という時の命は「プシケー」というギリシャ語で、生物学的、肉体的な命のことだそうで、一方「永遠の命」の命は「ゾーエー」というギリシャ語で、神的な命というか霊的な命というか、神とつながる活き活きと生きる命のことを意味しているそうだ。つまり肉体的な命に固執する者はそれを失い、肉体的な命に固執しない者は神とのつながりによる永遠の命に至る、と言っているようだ。
その後イエスは十字架へ向かっていく。イエスがその後をどれほど予想していたのかは分からない。昔は神だからなんでもお見通しで淡々として予定通りという気持ちで十字架に向かっていたんだろうと思っていた。役者が台本通りに演じているようなものかと思っていた。
でも最近はそうじゃなかったんじゃないかと思っている。イエスは命を狙われていることは十分感じてはいただろうけれど、具体的にどうなるかなんてことは分かっていなくて、不安とか恐怖とかもいっぱいあったんじゃないかという気がしている。
しかしそうするとどうしてそんな思いをしてまで突き進んでいくんだろうかという気になる。多くの実を結ぶためということなんだろうか。今日のところを見ているとそのために自分は地に落ちて死ぬんだと言っているかのようだ。
実
イエスの十字架の死が地に落ちて死ぬ一粒の麦であるならば、そこから結ぶ多くの実とはなんなのだろうか。
それはイエスの言葉を聞いて励まされ、慰められ、生かされる人たちということかなと思う。つまり私たちひとりひとりがその実ということかなと思う。そうだとするととても不思議な気がする。私たちとイエスとの繋がりがそれほどのことであるとするとなんだか面映ゆいような、勿体ないような気がする。
イエスがそこまでの覚悟を持って、つまり私たちを生き生きと生かすために、大事なことを伝えてくれた、命をかけてそれを貫いてくれた、ということなんだろう。
それは私たちを縛り付けるあらゆるものから私たちを解放する自由を私たちに与えるということでもあるんだろうと思う。私たちはいろんなことがら、いろんな言葉に縛り付けられている。お前は駄目だ、そんなことではだめだ、これはこうするべきだ、と言われ続け、自分の思いや自分の願いを押さえつけられている。そしてこんな自分では駄目だ、こんな自分は失格だと思わされている。しかしイエスは、お前はお前でいい、お前がいい、お前が大事だと言ってくれている。
イエスはその言葉、そして生き様を通して、私たちにそんな神のメッセージを伝えてくれたのだと思う。私たち人間にとって何が大事なのかを伝えてくれた。どうすることが、どう生きることが私たちにとって幸せなことなのか、喜びなのか、そのことを命をかけて伝えてくれたのだと思う。
そのイエスの言葉や生き様を通して、私たちが生き生きと生きる、苦しみの多い中でも決してなくならない希望を持って生きる、悲しみの多い中でも喜びを見いだして生きる、それこそがイエスの死を通して結び実なのではないかと思う。
そんな実を結ばせるために、イエスは最後まで自分を貫いて生きた、自分の生き様を私たちに見せてくれたということだろう。
そんなイエスの思いを抱きつつ生きること、それこそがイエスの復活ということでもあるのだと思う。
わからない
27節でイエスは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかしわたしはまさにこの時のために来たのだ。」と言っている。これは誰に向かって言ったのだろうか。なんだかひとり言みたい。
他の福音書ではゲッセマネというところで、「この杯を取りのけてください、しかし、私が願うことではなく、御心に適うことがおこなわれますように」と祈ったと書かれている。
イエスは淡々と筋書き通りに十字架につけられにいったわけではないということのようだ。取りのけてくれというより心騒ぐと言う方がかっこいいような気はするけれど。
それはいいけれど、その後の話はなんだかさっぱり分からない。28節の、「父よ、皆の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」というのはどういうことなんだろうか。そもそも栄光ってなんだろうか。
また33節に「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」という福音書をまとめたヨハネの説明らしきものがあるけれど、その前のイエスの話しのどこがイエスの死に様が示されているんだろうか。
栄光を現そう、ということだろうか。地上からあげられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう、ということだろうか。それとも一粒の麦が死ねば多くの実を結ぶ、ということだろうか。
これで自分の死に様を示したと言えるんだろうかと思う。
さらに34節以下で群衆がメシアは永遠のいつもいるのに人の子はあげられなければならないと言うのはどうしてか、人のことは誰か、と聞いた時の答えが光のあるうちに歩きなさいなんていう話しになるのはどういうことなんだろうか。話しが噛み合わないのは相変わらずだけれど、光のあるうちに歩くとか、光の子となるために光のあるうちに光を信じなさいってどういうことなんだろうか。なんだかさっぱり分からないというのが正直なところだ。
栄光って?
やっぱりこの福音書は、これをまとめたヨハネやヨハネの教会の信仰告白なんだろうなという気がしている。
28節で「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」という天からの声が聞こえたとある。
栄光ってなんだろうか。栄誉って言い換えた方が分かりやすいという説教があったけれど、なんだかそれも分かりにくい。ギリシャ語の釈義事典ってのを見たけれど難しいことがいっぱい書いてあってよく分からなかった。そこでネットで調べたら、日本国語大辞典に、「キリスト教で、神の顕現・臨在を表すのに用いる語。」というのがあった。実は一番しっくりしている。
福音書をまとめたヨハネは、盲人の目を見えるようにしたり、死人を生き返らせたりというようなことをしるしと言っていて、そこに神の顕現・臨在があった、つまり神の栄光が現れていたと言っているのかなと思う。そして再び神栄光、神の顕現・臨在を現そうと言うのが十字架ということを指しているんだろうなと思う。
つまり十字架の出来事に神の栄光が現れている、そこに神の顕現・臨在、つまり十字架の出来事に神の業が現れているんだということをヨハネは伝えようとしているのかなと思う。
どうして十字架に神の業が現れているんだろうか。それは徹底的に私たちを受け止め、肯定し、赦し、どこまでも味方でいる、そんな神の愛が現れているということなんじゃないかと思う。
私たちがどれほど弱くても、どれほど落ちぶれても、どこまでも一緒にいる、決して見捨てない、そんな熱い思い、それが十字架に現れているのかなと思う。だから十字架は神の栄光だ、ヨハネはそう伝えているんだろうなと思う。