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礼拝メッセージより
「前を向いて」 2024年2月11日
聖書:ヨハネによる福音書 9章1-17、35-39節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
因果応報
小さい頃はばちが当たる、とよく言われてきた。何か悪いことをするとしっぺ返しがあるとよく言われていた。だから何か不都合があると、自分が何か悪いことをしたことに対する罰が与えられたのではないかと思う、そんな考えが自然と身体に染み付いているような気がする。
今日の箇所では盲人が出てくるが、聖書の書かれた時代には、病気も罪の結果であり病人は罪人であると考えられていたようだ。そしてその罪が子々孫々まで影響するいう考えがあったようだ。
ひとりの盲人
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけた。彼は物乞いであったと書かれている。目が見えないことで通りすがりの人に物を貰うことでどうにか生きていたのだろう。
弟子たちは、その人が生まれつき目が見えないのは誰の罪のせいなのか、と聞く。本人なのか、両親なのかと。目が見えないで生まれたのは罪のせいであるというのが大前提なのだ。
目が見えないことは罪の結果なのか、罪の結果ではないのかと聞いているのではない。見えないのは罪の結果であるというのがほとんど疑う余地のない、いわば常識だったのだろう。だから弟子たちは誰に罪があるのかと聞いた。本人か、両親か、どっちなのだと。
しかしイエスは、本人の罪のためでも両親の罪のためでもないと答えた。周りの人たちにとっては全く想像も出来ないような答えだったのだろうと思う。誰の罪の結果なのかと聞いたのに誰の罪のせいでもないと言うのだ。
そして続けてイエスは、神の業がこの人に現れるためだ、と答える。神の業を現すためにこの人の目が見えないのだというのだ。神が神の業を現すためにわざわざこの人の目を見えなくしている、と言っているかのようだ。そして地面に唾を吐き、その唾で土をこねてその人の目に塗った。えらく汚いやり方である。当時は唾は治療とか魔術に使われていたそうだ。そしてシロアムの池に行って洗いなさい、と命じる。その人はその通り実行して見えるようになって帰って来た。
近所の人々
目の見えなかった人の周りに近所の者や、彼が物乞いであったのを見ていた人達が集まってきた。そしてどうして見えるようになったのかと聞く。そしてイエスに指示された通りに行ったことを聞くと、その人はどこにいるのかと問うが知らないということで、この人をファリサイ派の人々のところへ連れて行く。この出来事が安息日だということで、安息日の規定に反して治療をした疑いがあるということでの尋問ということかなと思う。
誰のせい
そもそもこの出来事は弟子たちが盲人の目が見えないのは誰が罪を犯したからかと聞いたことから始まっている。弟子たちは誰の罪かと聞いて犯人捜しをしている。
これは当時の人たち誰もが持っていた疑問でもあったんだろうなと思う。目が見えないのは漠然と罪の結果だと聞かされているけれど、誰のどういう罪の所為なのか誰も分からないでいたということなのではないかと思う。だからイエスに聞いてみたといったところなんだろうと思う。
ところがイエスの答えは全く予想に反するものだった。イエスは誰のせいだとは言わなかった。誰のせいでもないと言った。神の業がこの人に現れるためだと言った。
前を向いて
しかしこの神の業が現れるため、とはどういうことなのか。そこで奇跡を起こすためなのか。では目が見えるようになるというようなことこそが神の業なのか。そんな奇跡的な癒しだけが神の業なのか。
目の見えなかった人の変化は目が見えるようになるだけ、ではなかったようだ。彼はかつては物乞いをしていた。目が見えないことは罪があることだ、罪が赦されていない者だと考えられて時代で、そういう人たちは社会のまともな一員に入れてもらえてなかったようだ。ほとんど邪魔者のように見られて差別されていたのだろう。だから物乞いをするしかなかったのだろう。ただそこに座っているだけの生活がずっと続いていたのかもしれない。
しかし目が見えるようになったことでどうも彼の顔つきも変わったようだ。近所の人たちも似ているだけだと言う人がいた、なんて書かれているが、ということは相当顔つきも変わったということなんだろうと思う。
彼はファリサイ派の人たちとの話し合いの時にも堂々と話している。下手に逆らうと会堂から追放される恐れがあった、そうすると社会からさらに取り残されるということにもなりかねない。非国民になりかねない。けれども彼は自分の意見を主張する。目が見えない時と見えるようになった時の一番大きな違いはそんな彼の心の中だったではないかと思う。見えるようになったという身体の変化よりも、心の変化の方が大きかったのではないかという気がする。そしてそんなふうに彼に生きる自信を与えること、実はそれこそが神の業だったのではないかと思う。
目の見えない人に対して、それは神の業が現れるためだと言ってみんな見えるようにしてくれたらいいのにと思うけれど、そんな話はほとんど聞かない。いろんな障害やいろんな病気も全部癒してくれたらいいのにと思うけれど、実際にはなかなか思うようにはならないというのが現実だ。
自分がどうしてこんな障害を持っているのか、どうしてこんな病気になるのか、どうしてこんな不幸な目に遭わないといけないのかと思うことがしばしばだ。そんな時やっぱり私たちも何が悪かったんだろうか、どこで間違ったんだろうかと後ろを振り返って嘆くばかりになってしまうのではないかと思う。
そんな私たちに向かってイエスは、そんな後ろを振り返ってばかりいないで、前を向いて行こうと言われているんじゃないだろうか。苦しみの原因探しをするよりも前を向いて進んで行こうと言っているんじゃないだろうか。
そんなイエスと出会うこと、それこそが神の業なのかもしれない。イエスは真正面からこの人と向き合っている。周りの者たちは誰の罪のせいで見えないのか、そして誰がどうやってか見えるようにしたのかと分析するばかりだった。人はいくら分析されても何も変わらない。この人はイエスに真正面から見つめられたことで変わっていったのだろうと思う。
私たちもイエスに正面からしっかり見つめられることで変わっていき、そこで前を向いて進む力も与えられるのだと思う。
私たちの障害や病気、いろいろな苦しみを神がきれいさっぱり取り去ってくれたらどんなにいいだろうかと祈り願うけれど、現実にはそうはならないようだ。
しかしそんな私たちにイエスは、あなたは決して一人ではない、私はみえないけれどいつも一緒にいる、後ろを振り返るばかりじゃなくて、私と一緒に前を向いていこう、そう言われているのだと思う。そこから小さな一歩を踏み出すことで、やがて私たちの見える世界も変わってくるのだろうと思う。
そんなイエスと出会うこと、それこそが神の業なのだろう。