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礼拝メッセージより
羊と羊飼い
ユダヤの主要地帯は中部の高原地帯であった。その土地の大部分が荒れていて石が多かった。それでユダヤは農業国というよりも牧畜の国であった。草が少なかったために羊を遠くまで連れて行かなければならなかった。狭い高地で両側が断崖のようになっていて、そこから岩のごつごつした砂漠が続いているようなところがあって、羊がそこに迷い込んで行方不明になることがあった。
羊飼いの仕事は、野生の動物、特に狼から群れを守ること、あるいは羊を盗もうとする盗人や強盗から羊を守るという危険なものだった。
パレスチナの羊飼いたちは、自分の羊をわが子のように大切にして、一匹一匹名前をつけ、それぞれに羊の持つ特徴や性格を熟知していたそうだ。今日の聖書の少し前の10:3に「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」とあるが、実際に羊に名前が付けていたらしい。
パレスチナでは羊は大部分が羊毛を取る目的で飼育された。だから羊と羊飼いは何年も一緒に暮らすということもめずらしくなかった。だから羊に名前をつけ、その名前を呼ぶと羊も羊飼いの所へやってくるようにもなっていた。そして見知らぬ人が呼んでもそこへ行くようなこともなかった。
羊の門
羊は夜は羊小屋の中に入れられた。その小屋には二種類あった。ひとつは、村全体が共同でもっているもので、村中の羊が夜になると入れられた。そのような小屋には用心のために頑丈な扉がつけらえて、門番だけが鍵を所持していた。10:1-3「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあるのは村全体で持っている羊小屋のことのようだ。
そして暖かい季節になると、羊は高原に放牧されて、夜村まで帰る必要がないときには、羊の群れは丘の中腹にある囲いに集められた。それは石を積んでまわりを囲っただけのものだった。そしてその囲いには扉もなくて、羊飼い自身が夜になるとその入り口に寝そべっていた。つまり羊飼い自身が羊の門となっていた。7節の「わたしは羊の門である」とあるが、羊飼いは文字通り羊の門となっていたそうだ。
良い羊飼い
イエスはそうやって自分が囲いの門となるような羊飼いである、良い羊飼いであるという。
良い羊飼いは命がけで羊を守り、命の危険を顧みないで迷い出た羊を探しまわる。私たちはそんな風にして守られている者なのだという。一人で生きていけない、羊飼いの声を聞いて従うことでやっと生きていく、それが私たち人間の姿なのだと言っているのかもしれない。そしてイエスはそんな羊たちを守り導く良い羊飼いであると言うのだ。
羊飼いがただの雇い人であれば、自分の身に危険が迫ってくると逃げ出してしまう。しかし良い羊飼いは反対に羊のためにいのちをかける。イエスは羊のために自分の命を捨てる、そんな良い羊飼いだと言う。長年寝起きを共にする、そしてそれぞれに名前も付けている、それはほとんど家族のようなものなのだろう。よい羊飼いは羊のことを家族のように大事に大事に思っている。そして羊も羊飼いのことをよく知っていると言っている。
知る?
それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである、とイエスは言う。小難しいことを言うけれど、この知っているという言葉は、ただ単に顔を知っているとか名前を知っているというような意味での知るということではないそうだ。旧約聖書の創世記に、「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み」というような言葉があるけれど、その妻エバを知ったという時の知ると同じような意味の言葉だそうだ。つまり顔や名前を知っているというようなことではなく、愛のある深い繋がりを持つというような意味での知るという言葉なのだそうだ。
父なる神とキリストとはどういう関係なのか、私たちには分かりにくい。一つの神なのにどうして父と子となっているのか。それは一つの神の別々の顔というか、仮面がいくつかあるようなことなのかな。一人の人に肩書きがいくつかあるような、中身は一人だけど役割を複数持っているようなものかなという気がしているけど違うのかな。正直よく分からないけれど、父なる神とキリストとはとても切り離すことができない深い繋がりがあり、そんな関係のようだ。
そして羊飼いと羊とは、つまりキリストと私たちとはそれと同じように、深い繋がり、愛のあるつながりがある、とても切り離すことができないそんな関係なのだと言うのだ。それほどにイエスは羊のことを、私たちのことを大切に、大事に思っているということだ。自分の家族のような、あるいは自分自身でもあるかのような関係だという。
命を受けるため
そして羊飼いであるイエスは、私たち羊のために命を捨てるというのだ。これは後の十字架の死のことを言っているようだ。
羊飼いが命を捨ててしまったら、その後羊たちはどうすればいいんだと心配になってしまったりもするけれど、再び命を受けることができると言ってるからいいのかな。
それはさておいてイエスは10節で、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言っている。
また小難しいことを言うと、羊が受ける命と、羊飼いが捨てるという命はギリシャ語では別の言葉なのだそうだ。羊飼いが捨てる方の命は原語ではプシュケーとかいう言葉だそうで、死んだらなくなる普通の命のことだそうだ。一方羊が受ける命はゾーエーという言葉で、永遠の命と言う時に使われる言葉で、活き活きと生きる命とか、豊かな命というような命のことだそうだ。
つまりイエスは自分の命をかけて、私たちに豊かな命、活き活きとした命を与えると言っているということのようだ。ただ心臓が止まらないようにするためじゃなく、むしろ心臓が止まっても豊かに活き活きと生きるような、そんな命を私たちが受けるためにイエスはやって来たと告げているようだ。
私たちは羊
わたしは良い羊飼いである、なんてイエスは言うのかな、わたしは羊飼いというのはまだ分かる気がするけれど、自分で自分のことを良い羊飼いなんてイエスは言わないような気がする。また命を捨てるということが繰り返し出てきていて、これは十字架のことを言っているのかなと思う。そうすると実は今日の箇所は福音書を書いたヨハネかヨハネの教会の信仰告白ではないかという気がしている。
イエスを良い羊飼いだと言っているのはヨハネなんじゃないかと思う。そして私たちは良い羊飼いに守られている羊だということだ。良い羊飼いは羊のことをよく分かっていると思うけれど、羊は羊飼いがどんな人間なのかなんてことはそれほどよく分かってないだろうし、分からなくてもいいんじゃないかと思う。命を再び受けるために捨てる、なんてなんだかよく分からない。分からない自分を正当化したいという気持ちも大きいけれど、羊は自分を飼い主が自分のことを大切にしてくれていることさえ分かっていればそれで十分なんじゃないのかな。そしてただただその羊飼いを信頼してついていけば良いということなんじゃないのかなと思う。
そしてヨハネは、イエスこそ私たちを命がけで大切に守ってくれる、そして私たちが何も心配せずに従っていくべき良い羊飼いだと告げているのだと思う。