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礼拝メッセージより
噛み合わない
ヨハネによる福音書を読んでいると、イエスと周りの人との会話が噛み合ってないなと思うことがよくある。今日の箇所にはイエスがユダヤからガリラヤへ帰る途中のサマリアの女の人とイエスとの会話が書かれているけれど、ここもなんだか噛み合ってない会話が続いているような不思議な箇所だ。
今日の箇所だけではないけれど、元々はもっと長い会話になっていたのを、ヨハネが福音書をまとめる際に要所要所だけを残したんじゃないか、だからこの福音書の会話が噛み合ってないんじゃないか、なんて勝手な想像をしている。
サマリア
ユダヤからガリラヤへ向かう途中。通常ユダヤ人は回り道をしてサマリアを通らない。イエスに従う弟子が多くなることをファリサイ派が知ったということでイエスは急いでガリラヤへ向かっていたのかも。最短距離を通って。そうするとサマリアを通らねばならない。
ユダヤ人とサマリア人の対立は何百年も昔からのことだった。紀元前722年、当時南北に分かれていた内の北イスラエルはアッシリアによって滅亡させられ、指導的な立場の人達は別の土地へ移住されられ、逆にアッシリアからの移民がサマリアに住むことになった。元からいたイスラエル人と移民との間に産まれた人々がサマリア人と呼ばれたそうだ。
南のユダも後に滅ぼされるが、バビロン補囚後に国を立てなおす際に、民族の血の純潔を守ることを再建の原理とした。そのためユダヤ人はサマリア人をイスラエル人の血を穢したと言って迫害し、エルサレム神殿に受け入れなかった。これに対抗してサマリア人はゲリジム山に独自の神殿を建設し、モーセ五書のみを独自に編纂して対立を深めた。その後もアレクサンドロス大王によってマケドニア人をサマリアに殖民させたために、ユダヤ人は余計にサマリアを蔑視するようになった。そんなことからユダヤ人とサマリア人は何百年もの間ずっと対立していて、交わりを嫌っていた。そのためユダや人たちは旅をするにもまっすぐサマリアを通れば近いのにわざわざ遠回りをしてサマリアを通らないようにしていた。
と分かったようなことを言っているけれど、ずっと疑問に思っていたことがある。ガリラヤもかつての北イスラエル王国に属していて、しかもサマリアよりも北にあるのに、どうしてユダヤ人はサマリアだけを毛嫌いしていたのかということだ。
あまりはっきりしたことはわからなかったけれど。ガリラヤも北イスラエル王国滅亡後に、アッシリア、バビロニア、ペルシア、マケドニア、エジプト、シリアに次々と征服され、異邦人の移住と補囚が繰り返されて、いろんな民族が混じり合っていたそうだ。
しかし紀元前76年からイスラエルを統治していたアレクサンドロス・ヤンナイオスはガリラヤを取り戻した。ヤンナイオスはユダヤ人を保護し、異邦人にはユダヤ教への改宗を強要し、ユダヤから多くのユダヤ人の移住もあった。その後ヤンナイオスがファリサイ派を弾圧したため、多くのファリサイ派の人たちも逃げてくることになり、だんだんとユダヤ化することとなった、ということが書いてあった。
疲れ
イエスと弟子たちは南のユダヤからガリラヤへ向かっているが、彼らはサマリアを通る最短の道を選んでいる。ヤコブの井戸まで来た時イエスは疲れていたと書かれている。あるいはファリサイ派の追っ手から逃れるために道を急いでいたのだろうか。あるいはサマリアまでは追ってこないと思っていたのか。前の晩遅くにエルサレムを出発して、休みなく歩いたとすると、丁度このシカルという街に着くのが昼の12時ごろになるそうだ。どうやらそれに近い旅のようだ。夜通し歩いたとすれば肉体的にも相当疲れていただろうが、精神的にもかなり疲れる旅だったことだろう。
出会い
そこでイエスは丁度井戸に水をくみに来た女に水を飲ませてください、と求める。この女の人はびっくりしてしまう。女の人は、なんでユダヤ人がサマリア人にそんなことを頼むのか、と言い返す。いつもサマリア人を穢れたものとして見下して交わりを嫌っているくせに、どうしてそのサマリアの女に声をかけるのか、それとも頼み事があるときだけは話しをするのか、というようなことだったのだろう。
イエスは、もし水を飲ませてくれと言った者が誰なのか知っていたらあなたの方が頼んだだろう、そしてその人はあなたに生きた水を与えたであろう、なんてことを言う。
生きた水って何なんだろう、一体何を言っているんだろうと思う。突然そんなこと言われてもわかるわけないよなと思う。
この女の人は正午ごろ水を汲みに来ている。それは異常なことだそうだ。普通は朝か夕暮れに汲みに来るそうだ。その後の会話から、彼女にはかつて五人の夫がいて今の相手は正式な夫ではないということのようだ。そのことを後ろめたく思っているから、あえて誰もいない時間を見計らって井戸に水を汲みに来ていたということのようだ。誰とも関わりたくないという思いを持っていたのだろう。誰に会っても、あの女はみっともない女だ、とか言われていたのかもしれないという思いを持っていたということのようだ。
多分彼女にとっては人間関係は煩わしいだけのことだったに違いない。誰かになにかを頼まれたり頼んだりするようなことをする気持ちはもうなくなっていたのではないか。周りの人間は自分を非難し蔑むだけの者だとして誰とも関係を持たないように心を閉ざしていたのではないかと思う。
この女の人は、あなたはその生きた水をどうやって手に入れるんですか、くむ物も持っていないし井戸も深いのに、なんてことを言う。それに対してイエスは、「この水を飲む物はだれでもまた渇く、しかしわたしが与える水を飲む者はけっして渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言った。どうやらイエスは精神的な、あるいは霊的な水というか、たましいの渇きをいやすような水の話をしているらしい。しかしこの女の人は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言った。水をくみに来ることはかなり大変ことだったのだろうから、くみに来なくてもよくなると期待したのか、それとも何の話をしているのかよく分からないまま、一所懸命に答えていたのかな。
傷
そういうことじゃなくて、水と言ったけれど井戸でくむ水のことじゃなくて、と言いたくなるような場面だ。けれどイエスは女の人の誤解を正そうとはしないで「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言って次の質問に移っていった。女の人は「わたしには夫はいません」と言った。どうやらそれは間違いではなかったようだ。詳しい事情は分からないけれども、この女の人には5人の夫がいて、今は夫ではない人と連れ添っていた。だから夫がいないというのは正しかった。でも男性関係はこの人にとっては触れられたくないことだったのだろうと思う。
この女の人は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って礼拝すべきところはどこなのか、というような話を持ち出してきた。夫のことは触れられたくない、追求されたくない、そんな気持ちから話しを変えたような気がする。しかしそれに対してもやっぱりイエスはとやかく言うことはない。そして場所が問題ではなく霊と真理をもって礼拝しなければならない、という話をする。女の人は、キリストと呼ばれるメシアが来られて、一切のことを知らせてくださいますと言い、イエスはそれはこのわたしである、と答えた。
ちぐはぐな会話が続いてきたけれど、最後には彼女は町に行って、自分のことを全部言い当てた人がいます、この人がメシアかもしれません、と人々に言ったというのだ。
誰にも会いたくなくて真っ昼間に水をくみに来ていた人だった。その人が頼まれもしないのに、町の人たちをイエスのもとに連れてくることになった。
イエスと出会うことで、イエスと話すことでこの女の人は変わってしまった。
傷に触れられ
「夫をここに呼んで来なさい」と言ったことがここの話しの焦点のような気がしている。というか、この事が一番気にかかる。
きっと彼女は人に言えない苦しい思いをずっと持ちつづけてきたのだろう。周りから白い目で見られていることで余計に苦しくなっていたのだろう。男性関係のことが話題になるたびに周りから責められ続けてきたのではないかと思う。どういういきさつでそうなったのは分からないし、彼女が悪かったのかどうかも分からない。けれどもそのことは、この女の人にとってはそんな誰にも触れられたくない、そして触れられる度に痛みを覚える、そんな傷となっていたんじゃないかと思う。
イエスはその傷に手を触れたんだと思う。けれどもそのことに対してこの人を責めることはなかった。「ありのままを言ったわけだ」と言った。しかし責めることも咎めることもなかった。自分のことは何でも知っている、知られたくない事も知っている、しかしそんな自分をそのまま受け止めてもらっている。この女の人はそんな思いを持ったのではないかと思う。
知られているということは隠さなくてもいいということだ。隠したいというのはそれを知られることで責められたり除け者にされたりするという恐れがあるからだろう。ええかっこうをしようとするのは、本当の自分を隠そうとしているからだろう。全部知られている、けれども受け止められていると分かれば恐れもなくなるわけだ。イエスとの出会いはそんな出会いだったのではないかと思う。
人は誰でも心の奥底に、少し触れるだけで痛くなるような傷を持っているのだと思う。何かが触れる度に全身に痛みが走り、こんな醜い思いを持っている自分は駄目だ、こんな汚い過去を持っている自分は駄目だ、やっぱり自分は駄目なんだという思いになって落ち込んでしまう、そんな傷を持っているのではないか。誰かに指摘されたり、時には自分で思い返しては、やっぱり自分は駄目なんだと自分で自分自身で恥じ、こんな自分では駄目なんだと自分自身で責めてしまう、そんな傷を誰もが持っているのではないかと思う。
このサマリアの女性は、後ろめたい過去を引き摺り、それを恥じてそんな自分を誰よりも自分自身で責めて生きてきたのだろう。だから周りの人との交わりを避けて生きてきたのだろうと思う。
しかしイエスとの出会いによってこの女性は変わっていった。何もかも知られている、けれどもそれを責めることも糾弾することも冷笑することもなく、正面から向き合ってくれ、それどころかまことの礼拝とは何なのかという大切なことまで話してくれた、そんなイエスとの出会いによってこの女性は変えられていったのだろうと思う。
イエスは夫を呼んで来なさいと言うことで、この女性の心の傷に触れた、でもそれはこの女性を癒すためだった。
同じようにイエスは私たちを痛めつける傷に手を触れ、傷口を開いて、膿を取り除いてくれるのだと思う。自分を責め、自分を否定する、そんな膿のような思いを取り除こうとしてくれているような気がしている。
あなたは駄目じゃない、決して駄目じゃない、あなたを愛している、あなたが大切なんだ、そんなイエスの言葉で私たちも癒されていくのだ。だから最初は多少痛いかもしれないけれど、もっともっと傷に触れてもらおう。もっともっとイエスの言葉を聞いて、もっともっと癒してもらいたいと思う。