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礼拝メッセージより
その翌日
イエスと弟子たちとの最初の出会い。それは洗礼者ヨハネを通してだった。
1:28によると、ヨルダン川の向こう側のベタニアで、祭司やレビ人たちから遣わされたユダヤ人たちが、あなたは誰なのかとヨハネに問いかけ、わたしは荒れ野で叫ぶ声である、偉大な方は後から来られる、なんてことを答えたことが書かれている。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのだろう。
1:29以下では、その翌日、そこへイエスがやってくると、ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。後から来られると言ったのはこの方だ。霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」なんてことを語っている。これを誰に向かって語ったのかは書かれていない。弟子たちに向かってなのかな。
1:35以下では、その翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいて、イエスを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言った。そうすると二人の弟子はイエスに従って、その日はイエスのもとに泊まった、その二人のうちに一人は、シモン・ペトロの兄弟のアンデレであったと書いてある。39節には出会ったのは午後4時頃のことだと書いてあるけれど、何か意味があるんだろうか。
そしてアンデレはシモンに、わたしたちはメシアに出会ったと言ってイエスのところに連れて行き、イエスはシモンをケファと呼ぶことにすると言ったという。ケファは岩という意味だと書いてあって、ギリシャ語だとペトロとなるみたいだ。
そして今日の箇所になる。
その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポと出会って「わたしに従いなさい」と言われた。このフィリポとアンデレとペトロはベトサイダという町の出身だった。その後フィリポはナタナエルに出会い、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と告げた。要するに旧約聖書に約束されているメシア、キリストに出会った、それはナザレのイエスだということだ。
ナタナエルはこの福音書の21:2にカナの出身だと書いてある。カナはナザレの隣り村みたいで、ナタナエルはナザレのこともよく知っていたのだろう。だからナタナエルは、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言ったようだ。ナタナエルにとってメシアがナザレから出るなんてことは考えられないことだったようだ。またナタナエルは聖書をよく知っていたのだろう。聖書にはメシアはベツレヘムで生まれると書かれている。ベツレヘムという地名は出てくるけれどもナザレという地名は聖書には出てこないということも知っていたようだ。
後でイエスが、あなたがフィリポから話しかけられる前にいちじくの木の下にいるのを見た、と言っているが、いちじくの木の下というのは、そこで瞑想する習慣があるのだそうだ。つまりいちじくの木の下にいるのを見た、というのはそこでお祈りとか瞑想をしていたということなんだそうだ。
ナザレからいいものが出るなんてことはない、というナタナエルに対してフィリポは、「来て、見なさい」と言ってナタナエルをイエスのもとへ連れて行った。そんなこと言わずに来てみなよ、実際に会って見てみなよ、ということだろう。
来て、見んさい
教会では伝道、伝道、伝道が大切だ、伝道しましょうとよく言うけれど、伝道とは来て見なさいということなんだろうと思う。伝道は相手を説き伏せ、納得させることではなくて、来て見なさいと言ってイエスに出会ってもらうことなんだろうと思う。
弟子たちもそうやって、いろんな人を介してイエスと出会い、弟子とされてイエスに従っていった。もちろん彼らがイエスの何もかもを知っていたからそう告白したわけではない。分かっていることはきっとほんの一部分だったに違いない。イエスがどこで生まれてどんな暮らしをして家族はどうでなんてことなら、あるいは知っていたかもしれない。しかしイエスの本質を見抜いていた弟子たちはきっと誰もいなかったのだろう。しかしその者たちをイエスは自分の弟子として呼ばれているのだ。そして弟子たちはそのイエスに従ったのだ。そして従っていく中でイエスの姿を少しずつ知っていったのだと思う。
私たちがバプテスマを受けるときとよく似ている。何もかも分かってイエスを信じ従っていこうと決心したわけではない。よく分からんけれどもイエスこそキリストだ、救い主だと信じて従っている。
見つめられて
聖書を見ていると、イエスは何だかその時そこで出会った者を適当に弟子にしかたのようでもある。でもイエスは一人ひとりを見つめている。一人ずつ弟子にしている。弟子たちがイエスについていったのも、ついて行く決心ができたのも、イエスに見つめられていたからだろう。ナタナエルが、いちじくの木下にいるのを見たということを聞いて、あなたは神の子ですと言ったけれども、イエスに見つめられることで、イエスにしっかり見られている、知られているということを知ることで、弟子たちに変化が生まれたようだ。
イエスは弟子たちを見つめて、選び、務めを託す。任命する。何かをしたからでも、試験を受けて合格したからでもない。弟子たちを選んだとき、すでにもう彼らに弟子としての務めを託すことに決めている。
どうして彼らはイエスの弟子となれたのか。彼らはただイエスに選ばれ招かれたから弟子となった。ただそれだけ。イエスが選んだから。弟子たちにとってはどうして自分なのか、訳が分からないと言ったところだろう。
私たちがこうして今教会に集められていることも全く同じだと思う。どうして私たちがここにいるのか。もちろん試験に合格したからではない、何か特別なものを私たちが持っていたからでも、私たちがいい人間だったからでもない。ただ神が私たちを招いてくれたからだ。神から、あるいは誰かを通して、来て見なさいと声をかけられたから、私たちはこうして教会に集められイエスと出会っている。面と向かってあってはいないが、聖書を通して、言葉を通してイエスと出会っている。言葉であるイエスと出会っていると言った方がいいのかもしれない。イエスは弟子たちをひとりひとりしっかり見つめているように、私たちもそれぞれ大切なひとりとして見つめられていることだろう。
私たちは失敗したり挫折したりした時、この苦しみは誰にも分からないと思い、ただ一人で耐えるしかないという気になる。そしてひとりぼっちなんだという思いが余計に私たちを苦しめる。
けれどもイエスはいつも私たちを見つめてくれているはずだ。ナタナエルに会う前から彼を見つめていたように、私たちが気付いていない時にもイエスは私たちを見つめてくれている。
私たちにとって大事なことはこのイエスに見つめられ続けていくこと、イエスの視線の中に居続けること、いやどんな時でもイエスの視線の中にいるということを知ることなんだろうと思う。
来て見んさいというのが伝道だろうという話しをしたけれど、来て見んさいや、よく見てみんさいやと言われてるのは自分自身じゃないかという気がしている。もっと偉大なことをあなたは見ることになる、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのをあなたがたは見ることになる、と言われているのは自分自身じゃないか、と言う気がしている。
その翌日、その翌日と繰り返してるのは何故なんだろうかとか、最初にイエスに従った二人の弟子のもう一人は誰なんだろうかとか、バプテスマを受けてもないのにイエスは何をしにヨハネの下に来たんだろうかとか、聖書のここはおかしいとか、つじつまが合わないじゃないかとか、そんなことばっかり気になっている。そういうことを考えるのは面白くて楽しくて新しい発見もあるけれど、イエス自身ことをしっかりと見ているんだろうかと思うと案外あまり見てないような気がしている。
イエスが自分のことをしっかりと見てくれている、そのイエスのことを、またそのイエスの目をあまり見つめていないんじゃないかという気がしている。
大切に大事に思う心を持ってこの自分を見てくれている、そのイエスの目をしっかりと見つめること、そこで私たちは偉大なことを見ることになるのだろう。