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礼拝メッセージより
第三イザヤ
イザヤ書の56-66章は、名前の知られていない預言者の書とされ、一般 に第三イザヤと言われている。彼が活動したのは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて、故国エルサレムに戻り、そしてバビロニア軍によって破壊されていた神殿を再建した時代。
第三イザヤは、多分バビロン捕囚から帰還した者の一人で、エルサレム神殿が再建される時に預言者として召され、活動した。紀元前539年に、ペルシア王キュロスがバビロニア帝国を倒したとき、バビロンに50年間捕囚になっていたイスラエルの民は、解放され、故国エルサレムに帰ることが許された。そして彼らは、故国エルサレムに帰ったら、まず神の住まいであるエルサレム神殿を再建しようと決心した。しかし、いざエルサレムに帰ると、その荒廃ぶりは予想以上に激しく、全く意気消沈してしまった。かつて自分たちが住んでいた家、かつて自分たちが礼拝していた神殿が以前の姿を留めていないほど荒廃しきっていたの。
4節「彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」には、そのようなエルサレムの荒廃した状況が暗示されている。
待ちに待った帰還であったのだろうと思う。けれどもその時の故郷はすっかり荒廃していたというのだ。50年ぶりに帰ってくるまでには、イスラエルの状況も人々もすっかり変わっていた。バビロンへ連れて行かれた者と、イスラエルに残った者との軋轢もあったことだろう。けれども彼らはなんとか神殿を再建しようとする。しかしその再建もすんなりいったわけではなかったようだ。周りの民族の妨害もあったようだ。そしてその再建は中断してしまう。
やっとイスラエルへ帰り、エルサレムの神殿を再建することになりこれからと言うときに、その神殿の再建も中断してしまう。イスラエルへ帰るときにはそれなりの希望を期待を持っていたことだろう。しかし現実にはその希望をうち砕くようなことが起こっている。大きな希望を持っていればいるだけその分きっと失望も大きかったことだろう。なにもかもうまくいかない、これからもうまくいきそうにもない、まるで今の日本のような、いつまでたってもよくならない、どこにも明るい未来が見えない、どこに希望を持てばいいのか分からないような有り様だったのかもしれない。あるいは今の教会も同じようなことかもしれない。若者や子どもが教会からいなくなってしまって、未来を託す者がいなくなってしまって、どうしてそうなってしまったのかも分からない、そしてそのことをこれからどうしたらいいのかも分からない、そんな風に未来に希望を持つことができない状況だったのかもしれない。そしてこの第三イザヤはそんな時代に神の言葉を取り次いだ預言者だった。
召命
61章は第三イザヤが何のために、誰のために神に選ばれ神の言葉を取り次ぐ者となったかということが書かれている。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人によい知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」とあるとおりだ。
彼は貧しい人によい知らせを伝えるために選ばれたという。良い知らせつまり福音は国の指導者や権力者ではなく貧しく苦しめられている人に伝えられるというのだ。権力もない、能力もない、何かをするような自信もない、そして未来に希望を持つことも出来なくなってしまっているそんな者に福音は伝えられるというのだ。そしてその福音は、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人には解放を告知するという。現実の厳しさに、何もかもうまくいかないことで打ちのめされている者の心を包むということだろう。そして捕らわれている者を解放するという。権力者によって捕らえられていた者、いろんなしがらみに捕らわれている者も解放される、福音にはきっとそんな力があるということだろう。
逆転
また3節では、「シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて讃美の衣をまとわせる」と言われている。人間的に見れば悪いことしか起きようがない、まったく未来に希望が持てない、そんな状態を神は完全に180°転換してしまうというのだ。
目の前の荒れ果てた神殿やエルサレムを見て嘆いている人々がいる。イスラエルでは何か深い悲しみの出来事が起こると、灰を頭からかぶる習慣があったそうだ。例えば、肉親が死んだときとか、何か大きな天災に遭ったときとか、戦争に巻き込まれたときとか、疫病がはやったときなど。そのようなとき、人々は断食をし、粗末な服を着て、広場に行き、灰を頭からかぶった。しかしその灰を冠に代えるというのだ。悲しみの灰を喜びの栄光の冠に代えるというのだ。そして嘆きを喜びに、暗い心を讃美に代えるというのだ。神が嘆いている人に喜びと讃美を与えるというのだ。
希望の主
でもこんなこと言われて、ああ良かった良かったと素直に喜べる人はいたんだろうか。やっと地元に帰ったと思ったところが街も神殿も荒れ果て、どうにか再建しようとすると邪魔され思うようにいかない。目に見える現実は厳しくて、見えるものは嘆きの種ばかりだったのだろうと思う。
私たちも似たようなところがあるのではないかと思う。目に見える現実、その現実の厳しさに目を奪われている。神の言葉よりも目に見える現実に捕らわれてしまう。そんなことが多い。そして嘆くことが多い。
礼拝の人数が少なくなったと言って嘆き、献金が減ったと言って嘆き、愛がないといって嘆き、そんな思うように行かない現実を前にすっかり希望をなくしてしまっていることが多い。
今日の箇所のもう少し後ろの11節には「大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」という言葉がある。
神がそうしてくれるのは、大地から草が生えてくるように、蒔いた種が芽生えるように確実なことなのだと言うのだ。冬になると草も枯れて表面的には何もなくなってしまう。けれども見えるところには何もなくても春になれば確実に芽が出てくる、そのように神の約束は確実にやってくるというのだ。今は私たちにはまだ見えていなくても、神は確実にそうして下さるというのだ。今の嘆きを喜びに代えてくださるというのだ。
しかし本当にそんなことあるんだろうかと思う。何もかもうまくいかなくて希望の種は全然見つけられないような時、こんな状況なのにどこに希望を見いだせるのかと思う。あるいは失敗したり挫折したりして自分の駄目さや自分の無能さを突きつけられようなときは尚更だ。
一つの願いが叶うとか、少しでもいいことが起きるとか、希望の種と思えるようなことが少しでも見えたなら元気になれるような気がするし、そんな目に見える希望の種を期待して一所懸命に捜しもするけれど、そんな目に見えるようなものが何も無いときは一体どうしたらいいんだろうかと思う。
しかしそんな私たちの目に見える所に希望が全くなかったとしても、また自分自身の中に全く希望が持てないとしても、神に希望を見いだせるならば、その希望は決してなくなりはしないということかなと思う。神に、イエスに希望を持てるならば、その希望は決してなくなりはしないということだと思う。
見えないものに
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二4;18)という言葉がある。
見えないけれどイエスは共にいてくれている、私たちを大事に大切に思ってくれているイエスが共にいてくれている、いつも一緒にいてくれている、そこに希望がある。現実はそうそう変わらないかもしれない、しかしイエスもずっと一緒にいてくれている。その見えないイエスをしっかりと見ていきたいと思う。見えないものは永遠に存続するのだから。