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礼拝メッセージより
シリア・エフライム戦争
アハズ王は紀元前735年に20歳で南ユダ王国の王となった、と列王記下16章に書かれている。
イスラエルはソロモン王の死後、紀元前922年に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂していた。
アハズが王となった頃は北にアッシリアという強い国があり、アッシリアにほど近い北イスラエル王国や、そのすぐ隣のアラムはアッシリアの脅威にさらされていた。アッシリアから貢ぎ物を要求されていたそうだ。しかし両国はアッシリアへの貢ぎ物を納めることを拒否し、アラムの王であるレツィンとイスラエルの王であるペカは反アッシリア同盟を結成した。そして北イスラエル王国の同胞であり強大国とも言えるような南ユダ王国のアハズに、反アッシリア同盟に加わるようにと求めた。ところがアハズ王はそれを拒否した。
そこでアラムと北イスラエルの反アッシリア同盟は南ユダ王国を攻撃しエルサレムを包囲した。旧約聖書の歴代誌によると、南ユダ王国は敗北して、一日に12万人の兵を失い、多くの重要な役人も殺され、多くの者が奴隷として連れ去られたと書かれている。しかし列王記では、反アッシリア同盟はエルサレムを包囲はしたが占領できなかったと書いてある。
実際はどうだったのかよく分からないけれど、このエルサレムへの攻撃に際して、南ユダ王国のアハズ王はアッシリアに救援を求めた。その結果アラムは征服され、北イスラエル王国も弱体化し10年後に滅ぼされることになた。南ユダ王国はとりあえずアッシリアに助けられはしたが、アハズはエルサレムの神殿と王室の宝物をアッシリアの王に貢ぐこととなってしまった。
イザヤ
今日の聖書箇所はアラムと北イスラエルがやってエルサレムへ攻め上った来た時の話しだ。7章の今日の箇所のすぐ前のところには、アラムとエフライム、エフライムとは北イスラエルのことだけれど、そこが同盟したことで国中が動揺したと書かれている。
しかしその時主がイザヤに、アハズに対して、落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない、彼らは南ユダ王国にアハズを追い出し別の王を立てようとしているけれどもそれは実現しない、と告げたようだ。
主が更にアハズに語った、というのが今日の箇所になる。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」というのはイザヤが言ったのだろうけれど、それに対してアハズは、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」と答えたというのだ。主を試すようなことはしないというのは、要するに主に期待しないということだろう。
それに対してイザヤは、主が自らしるしを与える、おとめが身ごもって男の子を産む、その名をインマヌエルと呼ぶ、と答える。
ちなみにこの「おとめ」という言葉は若い女性を指す言葉で処女という意味はないそうだ。旧約聖書をギリシャ語に訳した際にこの言葉を処女を意味する言葉に訳して、それをマタイが引用したことからキリスト教の信仰に影響したということだそうだ。
インマヌエル
しかし、おとめが身ごもって男の子を産んで、その名をインマヌエルと呼ぶことがどうしてしるしなんだろうか。インマヌエルとは、神我らと共にという意味だけれど、呼ぶというのは誰が誰をそう呼ぶと言っているのだろうか。
それに続くイザヤの預言が15節以下に書かれている。そこを見るとその男の子が、災いを退け幸いを選ぶことを知るようになるまで、これは善し悪しの判断が着く頃までにということかな、その頃までその子は凝乳と蜂蜜を食べることができ、アラムと北イスラエルは滅ぼされると言われる。しかしその後アッシリアによって、エフライムがユダから別れて以来望んだことのないような日々がやってくるとも言っている。エフライムとは北イスラエルのことで、かつてのイスラエル統一王国が南北に分かれて以来の辛い状況になると言われている。
イザヤの、アッシリアに援軍を頼むことで、僅かの時間は平穏になる、しかしその後そのアッシリアによって荒廃することになるだろうとの預言は8章にまで続く。
8:5-10には「 主は重ねてわたしに語られた。「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み/レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。それゆえ、見よ、主は大河の激流を/彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし/至るところで堤防を越えユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は/インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。」という言葉がある。
ここにもインマヌエルという言葉が出てくる。ある牧師はこのインマヌエルというのは、「エルサレムは何があっても大丈夫だ神が我々と共にいるからだ」などと思い上がってはいけないという警告だと書いていた。
警告というか皮肉だなという気がしている。神が我らと共にと豪語してるあなたたちよ、そう言いつつ神の声に従わない、神に頼ろうとせずアッシリアに頼るインマヌエルのあなたたちよ、あなたたちの国土はアッシリアにによって覆い尽くされると皮肉を言っているようだ。
そうすると7章のインマヌエルもやっぱり皮肉かなという気がする。しるしを求めないというアハズに対して、神が否応なしにしるしを与える、神に頼らないお前に、神我らと共にと呼ぶ子どもが産まれる、それこそが神が与えたしるしだと言っているのかもしれない。とするとかなり強烈な皮肉だなと思う。
マタイ
マタイは自分のまとめた福音書の中で、イエスの誕生の際にこのイザヤの言葉を引用している。(マタイによる福音書1章21-23節)
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イザヤの時代にはただのかけ声だったのかもしれないけれど、マタイはイエスの姿の中に本当のインマヌエルという言葉の意味を見出したということではないかと思う。インマヌエル、神我らと共に、それをイエスが実現したというか、見せてくれた、示してくれた、ただのかけ声ではない真実のインマヌエルを実感させてくれた、そのことをマタイは伝えようとしているのではないかと思う。