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礼拝メッセージより
あらし
風が吹くと今でも船は大変。時々ネットで大きなフェリーに乗って旅行している様子を見ることがある。全長が200メール位あるようなすごく大きなフェリーでも大きく揺れて立っていられなかったり、舟の中の椅子が倒れてしまうように揺れている映像を見たこともある。見ているだけで船酔いしそうな感じだった。
イエスの時代の舟がどれ位の大きさだったのかは分からないけれど、風が吹くと今よりももっともっと大変だっただろう。まして船に乗って向こう岸へ行こうと言いだしたのは夕方だった。ということはこれから日が暮れて暗くなろうとしている時ということだろう。そんな時間になって湖に出ていくことに、弟子たちはあまり乗り気ではなかったのではないか。
そこに突風が吹いてきて船の中に水が入ってきたようだ。水浸しになるほどだった、というように大変な事態。それでもイエスは船尾のほうで寝ていたというのだ。こんな大変な事態なのに寝ていた。
弟子たちは大慌てでイエスを起こして「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったという。これはどういう意味なんだろうか。
昔ここを読んだときには、イエスに対してキリストなんだから、神なんだから嵐を静めて下さい、というような気持ちで言ったのかと思っていた。けれどこの時弟子たちはイエスが誰なのかほとんど分かっていなかっただろうと思う。特別な人ということは感じていたのかもしれないけれど、キリストだなんてことは全然わかっていなかったと思う。
私たちがおぼれてもかまわないのですか、と言うのは嵐を静めて下さいというよりも、こんな大変な時に眠ってる場合じゃないでしょう、あなたも水をかき出して下さいよと文句を言ったんじゃないかなと思う。
それからイエスが風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言うと風が止んで凪になったとある。そして「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言ったというのだ。
弟子たちはその後に非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合ったとある。
弟子たちはそんな奇跡的なことを経験した後に喜んだ訳でもなく、イエスを誉め称えた訳でもなく、非常に恐れたというのだ。
どなた?
突風がイエスの命令で本当に静かになるのかどうか分からないけれど、今日の舟は私たちの人生の譬えであるような気がしている。
イエスを乗せた舟に突風が吹くように、イエスと共に歩む人生にもいろいろな突風が吹く。いろんな嵐に遭うこともある。イエスがいれば嵐に遭わないなんてことはない。
そこで私たちも慌てふためいてイエスに文句を言うのではないか。どうして私を放っておくのですか、どうにかして下さいよと祈る。
嵐を鎮める時イエスは「黙れ。静まれ」と風と湖に言って大凪にした。イエスは同じように私たちの心の嵐に対しても同じことを命じられるに違いない。私たちの心の中を吹き荒れる突風をもきっとしずめて下さる。そのことも伝えようとしているのではないかと思う。
弟子たちは思ってもない出来事を経験し、この方はいったいどなたなのだろうと言い合ったという。弟子たちはそんなことを経験しながら、そしてこの人はどういう方なのだろうと問いながら、少しずつイエスのことを知っていったということだろう。
その後イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言って風を鎮めて、弟子たちはびっくりして恐れたとある。弟子たちはイエスのことをそれほどの者とは思っていなかった。イエスの力を見せ付けられて恐れてしまった。この人はこんなにすごい人だったんだと恐れるほど驚いたということだろう。
「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのは文句だろうと言ったけれど、ある牧師がここで、弟子たちはイエスに文句を言う自由があったと言っている。イエスの側にそんな自由な発言をさせる力があったのだろう。信仰がないために文句を言いそして間違っていたら叱られる、しかしそれで途切れるわけではない、そんな関係がイエスと弟子たちの関係だったと言っている。
『信仰がある時もない時もイエスに支えられてあることを信じることが信仰であろう。「ない」ときは、切り捨てられるのではなく、叱られるのである。「ない」ことをわきまえずに「文句」を言うところで、イエスとわたしたちとは結ばれている。そこに自由がある。イエスの与える自由がある。』(手さぐり聖書入門、清水恵三著)。
言われるままに正しく疑いなく信じる、それこそが本当の信仰だというような気持ちがある。聖書も正しく読まないといけないような気持ちがある。ありがたいお話しを黙って受け取らないといけないような気持ちがある。
しかし弟子たちはそんな気持ちはまるで持っていないようだ。そういう点では弟子たちはずっと自由だなと思う。自分の考えや気持ちを自由にイエスにぶつけているような気がする。間違って叱られるようなこともいっぱいあったみたいだけれど、そのありのままの気持ちをイエスにぶつける自由があったみたいだ。
イエスも間違う弟子たちを叱ることもあったけれども、決して見捨てることはない。間違ってばかりの弟子たちとイエスはずっと一緒にいる。同じようにイエスは私たちと共にいてくださる。
先ほどの牧師は、「驚き」や「恐れおののき」は分析するものではなく経験するものだと言っている。僕は分析ばかりしていて実際には驚いても恐れてもいないなあと思った。
私たちとイエスとの関係は、私たちの信仰の深さによって恵みが与えられるというような取り引きするような関係ではなく、私たちの信仰があってもなくてもどんな時にも私たちを見捨てない、そんなイエスとの関係を持つこと、それをイエスは望んでいる。
イエスは私たちにも。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われているのだろう。そう言われつつイエスの姿に、そしてイエスの言葉に驚き恐れていく。それが私たちとイエスとの関係でもあるのだろう。
この方はどなたなのだろうと問い続けることで、イエスの本当の姿が少しずつ見えてくるのだろう。
嵐に遭うことは大変なことだけれど、そこでまたイエスに問いつつ、文句を言いつつ、イエスのことを少しずつ知っていければいいなと思う。イエスってすごいなあと思うことがもっとあるのかもしれない。きっともっともっといっぱいあるんだろうなと思う。