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礼拝メッセージより
命
命って何なんだろう。マタイによる福音書によると、イエスがサタンの誘惑にあって空腹な時に石をパンにかえたらどうかと言われたと書かれている。人間が石を食べることができたらいいのにな、なんて思うことがある。そんなことを考えながら、結局人間が食べているものは植物にしろ動物にしろ命があるものばっかり食べているんだと思った。
また種というものも不思議なものだと思う。何百年も前の種に水をやると芽が出たなんて話しを時々聞くけれど、なんで種は芽が出て、石ころからは芽が出ないんだろうかなんて思ったことがあった。種には命があるからなんだろうなと思ったけれど、どうして種は命を持っているんだろうか、命のあるなしはどう違うんだろうかなんて思った。
その種が芽を出して成長するのもどうしてなのかよくわからない。水と光と栄養があれば育っていくみたいだけれど、どうして成長するのか、どうやって成長するのか、わからないなあと思う。どういう条件だと成長するのかというのは経験的にも分かるし実験すればよくわかると思うけれど、どうして成長するのかって結局はよく分からないじゃないかと思う。人間が自分の力だけで成長させることはできないなと思う。土や水や光などの環境を整えることは出来るけれど、後は人間の力で成長させることはできなくて、お任せするしかない。
イエスは、神の国はそのように人が土に種を蒔いて、知らないうちに成長して結んだ実を収穫するようなものだと言うわけだ。
実際の農家はそんな呑気なことは言っていられない。天気のこと、水のこと、虫のこと、雑草のこと、いろんなことを心配していろいろと面倒を見る。
ある教会(日本基督教団南甲府教会)のメッセージを見ていると、ここの箇所の訳がちょっと違うと言っていた。
27節で新共同訳では「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」となっている。これが岩波書店の訳だと、「夜寝て朝起きていると、彼自身の知らない間に種は芽を出し、成長する。」となっている。新共同訳だと種が芽を出して成長するのがどうしてなのかを知らないと言っている。種は芽を出すのにどうして石は芽を出さないのか分からないというのと同じような感じかな。でも岩波書店の方だと、知らない間に種が芽を出して成長すると言っている。どうやら原文だと岩波の方らしい。
そうするとイエスが言っているのは、人が種を蒔くと知らないうちに芽を出し実を結ぶというのだ。そしてまたそれは人の努力とか人の技でそうなるのではなく、28節にあるように、土がひとりでに実を結ばせるというのだ。種を蒔けば、知らないうちにいわば勝手に種は芽を出して成長し実を結ぶ、神の国とはそういうものだと言うわけだ。
からし種
もう一つの神の国のたとえはからし種だ。からし種は小さい種から大きい木に成長するそうだ。からし種って粒マスタードに入っている粒のことだろうか。あの粒のことなのかどうかはっきりしないけれど、大きさとしてはあれくらいみたい。でも成長すると大きくなって人が登ったという記録もあるらしい。
神の国はそのからし種のようなものだとイエスは言った。ということは神の国とは爆発的に成長するようなもの、ということなんだろうか。
神の国なんて言うと、神が最高権力者となって支配している国のような感じがする。しかしこのたとえを見ると、イエスの語る神の国とは、権力者が力を振るって治めるような目に見える国のこととは随分違うもののようだ。
そうではなく、土に蒔いてから成長すること、下から成長していくこと、神が下から支えていくこと、神によって下から根っこから支えられていくこと、それがイエスの語る神の国ということなんではないかと思う。
種
ではこの蒔かれた種とは何なのだろう。どこに蒔かれているのだろう。
このマルコの4章の始めのところには種を蒔く人のたとえという話しが載っていて、4:14には「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と書かれている。
そこから考えると種とは神の言葉なんだろう。神の国とは、神の言葉が人の心に蒔かれるとそれがいつの間にか成長すること、ということなんだろうと思う。
種に命があるから成長する。命のない種は決して成長しない。神の種には、神の言葉には成長する力がある、大きく成長する力がある、ということだろう。
それはいろんな人に御言葉を伝えるように、ということもあるのだろう。私たちがとやかく屁理屈を言うよりも、御言葉自体に力がある、命があるのだから、とにかく伝えればよい、ということでもあるのかもしれない。
そして同時に私たちは私たち自身の心の中にもこの種を蒔くことが大事なような気がする。しっかりと根を張ることができる心の真ん中に御言葉の種を蒔きなさいと言われているのではないか。
命の種が蒔かれていれば、それは成長して大きくなる、時期が来れば収穫するようになる。そんな種が蒔かれるところ、そこが神の国なのだ。
その種は神が豊かな実へと成長させてくれるというのだ。神の力によって豊かな実を結ぶというのだ。神の言葉によって私たちが慰められる、また力付けられる、それこそが豊かな実なのだと思う。
知らないうちに
そしてこれも先ほどの教会のメッセージにあったのだけれど、はじめの方の成長する種のたとえというのはマルコによる福音書にしかないそうだ。新共同訳には小見出しがあって『「成長する種」のたとえ』とかいてその下は何も書いてない。でも次の小見出しは『「からし種」のたとえ』とあって、その下にマタイとルカの福音書に同じ内容の箇所があると書いてある。
マタイとルカはマルコを参考にしつつ福音書をまとめたようだけれど、どうやらこの箇所は省いたらしい。マタイとルカは「土はひとりでに実を結ぶ」という言葉につまづいたいからだと言う神学者もいるそうだ。自分達がなにもしないのに「ひとりでに」実を結ぶなんて、そんな虫のいい話しはない、そんなことでは教会は成長しない、というような考えがあったようだ。神が成長させてくれるのは当然としても、自分達の努力も必要だ、イエスがこんな呑気なことを言うはずがないというような考えもあったのかなと思う。
でも知らないうちに芽を出し成長し実をつける、そんな種が自分の心にも蒔かれているとしたらなんだかとても嬉しいしワクワクする。そんな種がきっと私たちの心にもうすでにあるのだろう。イエスの言葉がまさにその種なんだろうと思う。イエスの言葉は私たちの知らないうちに芽を出し成長し実をつけるのだろう。神の力は私たちの知らないうちにもう働いているということだ。すごいことだ。
24節に「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」と言われている。
知らないうちに実を結ぶなんて、そんな呑気なことでは駄目だ、そんな甘い考えでは駄目だと思う、そんなことイエスは言わないだろう、そう思うことが自分の量る秤なのではないかと思う。
私たちは知らないうちに生まれ、知らないうちに生かされているのだと思う。大きな川の流れの中にあるように、神の偉大な手の中で、大きな支配の中で生かされているのだと思う。自分の力で生きているというよりも、生かされて生きているのだと思う。私たちを生かしている大いなる神の力を感じて生きていきなさいと言っているのではないかと思う。