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礼拝メッセージより
世間体
精神的な病気になった家族を座敷牢に閉じ込めて、社会の目に触れないようにしていたという話しを聞いたことがある。座敷牢をネットで検索したら、写真がいっぱい出てくる。鉄格子があったり、食事を入れる小さな窓があるだけの小さな部屋というか箱のようなものもあった。
自慢の子供だと思えるときには、うちの子供がこんなに立派になりましてなんてことを自慢げに話すけれども、なにか問題を抱えていたり、恥ずかしいと思えるような状態だったりすると、そのことを隠そうとするという気持ちはすごくよく分かる。世間体を気にする気持ちとか変なプライドとか、そういうものを自分もいっぱい持っているなと思う。
正気?
21節では、イエスの気が変になっていると言われているので取り押さえにきたと書いてある。イエスは悪霊に取りつかれているとも言われていたようで、この福音書を編集したマルコは悪霊に取りつかれているということと気が変になっているということが関連していると考えて、ベルゼブルの話しを並べたのだろうと思う。多分本来は今日の箇所が21節の続きの話しなんだろう。
うちの長男が仕事をやめておかしなことをはじめてしまった、しかも気が変になったなんて言われている、このままではお家の恥だ、ということなのだろう。それこそ座敷牢に入れておいた方が良いんじゃないかというような考えだったのかなと思う。
イエスの母と兄弟たちは、人をやってイエスを呼ばせたと書いてある。20節にはその家には群衆が集まっていたとあって、大勢の人がイエスの周りに座っていたので入っていけなかったのかもしれない。けれど、それだけではなく、おかしくなったと言われている息子を、さらに助長させているような者たちの中には入っていきたくない、そんな人たちともできるだけ関わりたくないという気持ちだったのかなと思う。
家族
そして家族のものが遣わした人が伝言をイエスに伝える。「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と。
イエスはこれに対して「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と聞きかえす。なんてひどいやつだ、となってしまいそうな言葉だ。家族がこんなことを聞いたら、やっぱりこいつは気が変になってしまったと思ったんじゃないだろうか。そこにいた群衆の中にも同じように思った人がいたかもしれない。それはないだろう、折角家族が来ているのにその言い草はないだろう、常識もない奴なのか、と思った人もいたんじゃないかと思う。
イエスはなぜこんなことを言ったのだろうか。
血は水よりも濃いという言葉がある。血の繋がった血縁者同士の絆は、どんなに深い他人との関係よりも深く強いという考えがある。血のつながりがあると分かることで途端に身近に感じたり、逆に血のつながりがないと分かると急によそよそしくなるなんて話しも聞く。DNA検査をして血のつながりがあるかないかで相手への気持ちが変わるなんて話しがネットにもよく出ている。
でもイエスは周りに座っている人々を見回して、わたしの母、わたしの兄弟だと言った。血のつながりなど何もない群衆のことをわたしの母、わたしの兄弟だと言ったというのだ。あなたたちこそ家族だと言ったわけだ。
家族となる
しかしもちろん現実には家族だから仲良く出来るとか、家族だからうまくいくとは限らない。聖書にもいろんな家族が出てくるが、旧約聖書に出てくる家族、アブラハムもイサクもヤコブも、そしてダビデも、どの家族もいろんな問題を抱えている、というか問題山積みの家族ばかりだ。
しかしいろんな問題を抱えつつも、切るに切れない関係が続く、問題を抱えつつも一緒に生きていく、それこそが家族なんだろうなと思う。そう考えると、家族となるとか家族でいるということは結構難しいことだし大変なことだと思う。
イエスが群衆のことをわたしの母、わたしの兄弟と言ったのは、家族となる、何があっても離さない、そういうつながりを持っていくという宣言なんだろうなと思う。
そういう思いで、イエスは私たちのことも見ているということだと思う。つまり私たちがどんなダメな人間だとしても、どんな落ちぶれたとしても、どんなにおかしくなったとしても、決して離さない、決して見捨てないそんなつながりを持つのだという宣言なのだと思う。
35節神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ、とイエスは言った。急に神の御心を行うなんて注釈がついているのはちょっと作為的な感じがする。34節では周りに座っている人々のことを無条件にわたしの母、わたしの兄弟だと言っているのに、35節になると急に「神の御心を行う人」と限定している感じがする。この言葉は34節とは別の伝承だろうと書いている注解書もあって、多分そうなんだろうなと思う。
あるいは、これは僕の勝手な解釈だけれど、
そこに座っている人たちが家族である、そして神の御心を行う人が家族である、とするとそこに座っている人は神の御心を行う人、ということになる。三段論法だけれど。
その理屈から言うと、この人たちがみこころを行っているとするならば、御心を行うとはイエスの言葉を聞くこと、ということしかないような気がする。御心行うなんていうと、神の言われる通りに正しく立派なことをすることのように思うけれど、ここでこの人たちがしていることはただイエスの言葉を聞いていることだけであり、でもそれこそが神の御心を行っているということになるのではないかと思う。
そしてイエスは、イエスの言葉を聞く私たちと、決して離されることのないつながりを持つのだと言ってくれている、あなたはもうすでに私の母なのだ、兄弟なのだと言っているのだと思う。
兄弟?、姉妹?
余談だけど、教会では男性のことを○○兄弟、女性のことを○○姉妹という言い方をすることがあるけれど、それもこの話しから来ているのかなと思う。
新しく教会に来た人が、教会の人はみんな名前の最後が兄とか姉とかつく日とばっかりで変だなと思っていた、なんて話しを聞いたことがある。
僕は名前の後に兄弟、姉妹と付ける言い方は苦手だった。自分が言うには小っ恥ずかしいし、取ってつけたような感じがしてしまっていた。それに人間は男と女と単純に分けられるものでもないということも知って、最近は兄弟、姉妹とは使わなくなった。
言い方はどうあれ、教会ってのはそうやってイエスから母だ、兄弟だ、姉妹だと宣言された者たちの集まりということだ。
イエスに、母だ、兄弟だと言われても、私たちはイエスとの血縁関係が生まれるわけではない。しかしイエスは血縁関係を越える新しいつながりを私たちと持つんだと宣言しているのだと思う。そしてそれは相手のためにはどんな犠牲をも厭わない、何があっても決して見捨てない、そんなつながりを持つと言ってくれているのだと思う。
自分のまわりに座っている、自分の話しを聞いている、ここにいるあなたたちこそが私の大事な家族なのだ、イエスは私たちに向かってもそう言ってくれているのだろう。