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礼拝メッセージより
気が変になった
イエスが家に帰られると群衆がまた集まってきて一同は食事をする暇もないほどだったと書かれている。マルコによる福音書には、イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出したりしていたと噂が広まって、大勢の群衆が集まっていたことが度々書かれている。
家に帰ったと書いてあるけれど、イエスの実家ではなく、この頃イエスが活動の拠点としていたシモンとアンデレの家のようだ。
イエスの身内の人達がイエスを取り押さえに来た、と書かれている。取り押さえるというのはすごい訳だが、人々がイエスのことを「あの男は気が変になっている」とか「汚れた霊に取りつかれている」と言っていたということなので、自分の身内の者がそんなことを言われているのに放ってはおけないということだったようだ。身内の者自身も同じように思っていたということなんだろう。
突然弟子たちを伴って宗教家になったり、教祖様にでもなってしまったとしたら、現代でも大丈夫なのかと思うだろう。しかも病気を癒すのは良いとしても、当時の社会の基盤であるユダヤ教の律法を破るようなことを始めたりしたら、おかしくなったんじゃないのかと思っても不思議では無い。取り押さえに行かねばと思うのが当然だろう。
そこにはエルサレムから律法学者たちも来ていた。律法学者の人達は、聖書の中では悪役として登場するので、私たちはこの人達の発言を最初から全部間違っているものとして読んでしまいがちだ。
今日の箇所の少し前の2章23節から3章6節あたりを見ると、イエスが安息日に禁止されていた労働をしたことが書かれていて、ファリサイ派の人達はヘロデ派の人達とイエスを殺そうと相談し始めたと書かれていて、この時もそのネタを探しに来ていたということかもしれない。
ファリサイ派の人達も律法学者の人達も、自分達が大事にしている律法をないがしろにしている者を、しかもそいつがみんなの人気者になってくるとなると、放っておくことはできない。世の中を混乱させるおかしな運動になっては困ると心配していたのだろう。律法をないがしろにすることは赦されないことであり、その風潮がひろがることでユダヤ教社会の秩序が乱れてしまっては困る、そんなことになっては自分達の権威も失墜してしまう、あるいは自分達の既得権益もなくなってしまうかもしれない、ということだったのではないかと思う。
内輪もめ
そこで律法学者たちは、あいつはベルゼブルにとりつかれている、悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している、と言ったのだろう。何にしても悪霊を追い出してもらえればありがたいことではないか、それで落ち着いたり元気になったりするなら嬉しいことじゃないかという気もする。しかし律法学者にとってはそれが誰の力によってそうなったかが問題だったようだ。神の力によって悪霊を追い出したのか、それとも悪霊の頭の力で追い出したのか、それが重要な問題だった。つまりそれはイエスが神の側の人間か、悪霊の側の人間か、どっちなのかということになる。律法学者たちにとってはイエスは悪霊の側の人間としか思えなかったということなんだろう。安息日の律法を公然と破るような人間が神の側の人間であるはずがないと思っていたということなんだろう。
ちなみに、ベルゼブルとは旧約時代の偶像の神であるバアル神を「バアル・ゼブル」(偉大なバアル)と読んでいたのを、イスラエル人が「バアル・ゼブブ」(蠅のバアル)と嘲笑して呼んでいたのが定着して、当時悪魔のかしらをベルゼブルと呼んでいたそうだ。
律法を大事にしない者は神に逆らう者だ、悪霊に取りつかれている、病気を癒すのも悪霊のかしらが病気の霊を追い出しているだけだ、と群衆に向かってお前ら騙されるなよと言ってたんだろうなと思う。
それに対してイエスは、国でも家でも内輪もめしていたら滅んでしまう、サタンも内輪もめしたら滅んでしまうと言う。つまりイエスは、自分はサタンの力で悪霊を追い出しているのではないと言っている。
そして強盗の話しになる。誰の力で悪霊を追い出しているかという話しをしていたと思うけれど、家財道具を奪うにはまず強い人をしばってから略奪するなんていう強盗の話しになるんだろうか。自分は悪霊を縛り上げている、悪霊の力を封じていると言いたいのかな。どうして強盗の話しになっているのかよく分からない。強盗に入るためにはじゃなくて、人質を助け出すためにはまず強い人を縛り上げるという話しにでもすればと言う気もするけれど、でも強盗の話しが一番分かりやすかったのかな。
聖霊を冒涜
それに続けて今度は罪の赦しの話しになる。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦されるが、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う。」と言った。
悪霊を追い出すはなしからどうして罪の赦しの話しになるのか、その繋がりもよく分からない。そしてこれってなんだかおかしい。すべて赦されると言っておきながら赦されないものがあるなんて矛盾してる気がする。
どういうことなんだろうか。
神学校のある先生は、すべては赦されるが聖霊を冒涜する者は赦されないというのは、すべては赦されるけれども、そのことを信じないものは赦されないということだと言っていた、と思う。
ネットを見ているとある人は、自分の善悪の知識で決め付けるということ、だと言っている人がいた。
僕は、自分は駄目だ、こんな自分では駄目だと思う気持ちが強い。目に見える成果がある時にはあまりそう思わないけれど、目に見える成果が見えないような時には特にそう思う。人数も献金も増やし、いろんな行事をいっぱいする、そんな風に教会を大きくできる牧師は認められるけれど、逆に教会を小さくするばかりの自分は駄目なんだ、という気持ちが強い。こんな自分では駄目なんだと自分で自分を責める気持ちが強い。
でもそれは自分が勝手に判断して勝手に自分を責めている、そんな自分を勝手に断罪している、勝手に自分を拒否している。勝手に自分を否定していることだと思う。
それこそが自分の善悪の知識で決め付けていること、全ては赦されると言うことを信じないこと、聖霊を冒涜することなのかもしれない。
全肯定
マルコによる福音書14章に、一人の女の人が石膏の壺を壊して、その中に入っていたナルドの香油をイエスの頭にかけたという話しがのっている。数百万円の価値のある高価な香油を全部かけてしまうというとんでもない行為だったようだ。その場にいた人達は勿体ないことするなと叱ったらしいが、イエスはよいことをしたのだ、言ってこの女の人の行為を賞賛した。
イエスはこの女の人を全面的に受け入れた、全面的に肯定したのだと思う。
全ては赦されている、というのは全てを受け止められ肯定されているということに通じているのではないかと思う。
この世ではそんなことはありえないことだと思う。自分のことを考えても、この自分の全てを赦すとか、全てを肯定するなんておかしなことだと思う。間違いだらけの自分だし、だらしない駄目な自分だ。
しかしイエスは全てを赦すと言っている。この世の理屈に合わないことだ。それこそ神業、神にしかできないことのようだ。
なのにそのことを信じない、すべてを赦されること、全てを受け止められることを信じないこと、それこそが聖霊を冒涜する者ということなのではないかと思う。
あなたは赦されている、ということを信じない人、受け入れない人にとっては確かに赦しは与えられない。赦しを拒否する人に赦しはやってこないというのは確かにその通りだ。赦されるわけが無いと言って赦しを認めない人には、赦されたという喜びは湧いてこない。
しかしすべては赦される、ということを受け入れる人には赦しがやってくる。まずは自分が赦されていること、受け止められているということ、肯定されていること、それを受け入れることだ。
そして自分を赦し自分を責めることをやめることだ。自分を責めるということは自分が神になること、赦している神よりも自分自身が出しゃばって赦さないと言っているようなものだ。
ナルドの香油をイエスにかけた女の人の話しをしたけれど、イエスはその行為に対して、良いことをした、と言った。イエスが良いことと言ったので良いことなんだ、どういう意味で良いことなんだろうと思ってきたけれどなかなかわからなかった。でもある時、それは普通に考えたらというか、この世の基準では全く良いことじゃなくて滅茶苦茶なことだったんだと思った。非難されるしかないことだったんじゃないかと思った。なのにイエスは、これは良いことだと言ったんじゃないかと思った。いわば全てを赦す言葉だったんじゃないかと思った。そう思うとこの良いことと言う言葉はすごい言葉だなと思うようになった。すごく嬉しい言葉だと思った。
何があったとしても私はすべては赦す、あなたのすべてを受け止める、あなたをすべて肯定する、そのことを信じてほしい、受け入れてほしい、イエスは私たちにそう言われていると思う。