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礼拝メッセージより
群集
イエスと弟子たちは湖の方へ立ち去った。湖とはガリラヤ湖のことらしい。そうするとガリラヤからおびただしい群衆がガリラヤから着いてきた。ガリラヤとはイエスが生まれ育ったガリラヤ湖の西岸の地域だ。そして福音書はガリラヤだけではなく、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからも、と付け加えている。ユダヤは死海の西の方の地域でその中心地がエルサレムだ。イドマヤはユダヤのもっと南の地域で、エドム人とユダヤ人の混血民族が住んでいたそうだ。ヨルダン川の向こう側とはヨルダン川の東側、ティルスやシドンというのはガリラヤよりも北にあって、これらはユダヤ人の言う異邦人の住んでいる地域だ。
聖書的にいうと世界中から大勢の人が集まってきたということを言いたいのだろうと思う。ちょっと大げさに言っているのかもしれないけれど。
そんな群衆が、イエスにさわれば病気が治ると思って押し寄せて来たという訳だ。
群集の期待
しかしイエスは小舟を用意させて群衆と一定の距離を置く。
なぜなのか?どうしてイエスは自分に従ってくる群衆と距離を置こうとしているのか。
群衆はイエスが病気を癒す力を持っていると思って集まっている。福音書はイエスが色んな人の病気を癒したということを伝えている。イエスの服に触っただけで病気が治ったなんて話もある。
病気であるということは大変な問題だし、病気を治してもらえれば有り難い。そんなすごい力があるなら、みんなの病気を癒してあげればいいじゃないかという気もする。
そういえばこの時イエスはみんなの病気を癒したんだろうか。ここには何も書いていない。かと思うと突然汚れた霊どもが、イエスを見て「あなたこそ神の子です」と言ったけれど、自分のことを言いふらすなと厳しく戒めた、なんていう話しになっている。あなたこそ神の子ですと言ったのは汚れた霊に取りつかれた人が言ったということだろうけれど、その汚れた霊をその人から追い出したとも書かれていない。
この箇所はなんだか随分漠然とした話しで何が言いたいのかよく分からない。
12人の選び
小舟で湖に出て行ったのかと思ったら、今度は山に登る話しになる。その前の話しとは関係ないのかな。
そこでイエスは12人を選んだ。弟子として、使徒として選んだ。「これと思う人々」とは「みこころにかなった者」という意味だそうだ。
どういう基準で選んだのかという具体的なことは書かれていない。立派な人、優れた人、偉い人、というようなことは何も書かれていない。ただイエスがこれと思う人を選んだとしか書かれていない。
でも何のために選んだのかは書かれている。
イエスが12人を選んだ目的は先ず第一に、彼らを自分のそばにおくためだった。イエスと共にいて、イエスに接し、イエスの言葉を聞き、イエスの行いを見るためだ。つまりイエスとの交わりの中におらせるため、イエスの愛の中に生きるため。まずそのために選んだ。
そして第二に宣教させ悪霊を追い出す権能を持たせるためだ。
宣教へ遣わすための準備としてではなく、自分のそばにおくことが第一の目的だったようだ。まずイエスとの交わりの中に生きること、それが12人を選んだ第一の理由だった。
教会の中心
12人の中には、漁師、徴税人、熱心党これは革命家、今で言うテロリストのような者もいた。そして裏切り者もいた。このリストにはどんな人物であったか、どんな能力を持っていたか、そんなことには何も触れていない。ほとんどが名前だけ。12人を立てたという事実にのみ関心があるみたい。
12人は考えや立場が一致した集団でもなかった。片やローマの側についている徴税人がいるかと思えば、ローマからイスラエルを独立させようとする革命家がいた。そんな雑然としたまとまりのない集団。共通点は、ただイエスによって選ばれたということだけのようだ。
呼び寄せられて
今の教会もこの12人と同じような集団。教会にもいろんな立場の違い、考え方の違い、才能や賜物の違い、そして信仰だってまるで同じではないだろう。教会も何か同じ志を持って集まってきた集団ではなく、ただイエスによって選ばれ集められた集団である。選ばれたというよりも、今日の聖書にあるように呼び寄せられたということなんだろうと思う。選ばれたというと選りすぐりみたいだけれど、そんなことはなくてただ呼ばれたから来たという感じなんだろうなと思う。
私たちがイエスにふさわしいからとか、神の国にふさわしいから呼ばれたのではなく、あるいはまた試験にパスしたから、条件にあったから呼ばれたのでもないだろう。じゃあどうして私なんかを呼ばれたのかと思ってしまうけれど、いくら考えてもその答えは出てこないような気がする。
私たちが持っている答えはただ一つ、ただイエスが招いたから。自分の何がいいとか悪いとかいうこととは一切関係なく、ただイエスに呼ばれたから、だからここにいる。それ以外の理由はない。ただ神がそうしたから。理由を自分の中に探してもない。理由は神の側にあるんだから、その理由は私たちにとって知る由もないということだろう。
裏切りも
イエスが呼び寄せた12人の中にイスカリオテのユダという人がいた。そしてここにはわざわざ、このユダがイエスを裏切ったのであると書かれている。
こう書かれていると裏切ったのはユダだけのように見えるけれど、十字架を前にして他の11人の弟子たちもみんな逃げ出したようだし、ペトロも3回もイエスのことを知らないと言ったことが書かれている。
裏切りはユダだけではなくて12人の弟子たちみんなと言った方が正確じゃないかと思う。そしてそんな者たちをイエスが呼び寄せたということだ。
裏切るかもしれない、そして実際裏切った者たちをイエスは呼び寄せたと言うことなんだろう。イエスはきっとそれも承知の上で呼び寄せたのだろう。そんな弱さやだらしなさを持った人間であることを分かった上で呼び寄せたのだろう。
そして私たちもそんな風に呼ばれているのだ。弱さやだらしなだや醜さを持った私たちをイエスは呼び寄せてくれているのだ。そしてイエスが私たちを呼び寄せてくれているのは、そんな弱さや駄目さを無くして立派な強い人間になるためではないだろう。弱さや駄目さを持った私たちを自分のそばに置くため、自分の言葉を聞かせるため、自分と共に生きるようにするため、そのためにイエスは私たちを呼び寄せてくれているのだろう。
弱さも駄目さもだらしなさも失敗も、そして裏切りも、そんなものも全部ひっくるめて、イエスは私たちを呼び寄せてくれているのだ。