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礼拝メッセージより
安息日
先週読んだマルコによる福音書2章23節からのところも安息日の出来事だったが、今日も安息日の話しだ。
先週も言ったけれど、安息日とは創世記2章にあるように、神が天地を作ったときに7日目に休んだということに由来する。そしてモーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日のあいだ働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と出エジプト記20章に書いてある。
また出エジプト記の34:21にも、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作のときにも、収穫のときにも、仕事をやめねばならない」と書いてある。さらに35:2には「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」とまで書いている。
こういう風に、安息日には休まにゃならんという決まりがあった。そういう律法があった。安息日には労働をしてはいけなかった。で問題は何が労働なのかということ。先週読んだ2章の最後のところでは、弟子たちが麦の穂を摘んだということで、それが刈り入れをするという労働になるので安息日にしてはならないことだ、とファリサイ派の人たちに言われていた。
他には二つの輪を作ること、二文字を書くこと、火を消すこと、火をつけること、なんていうのもあったそうだ。
火を使うことは労働になるので、ユダヤ人は安息日に料理をしないでいいように、前の日に安息日の分まで作っておくそうだ。エレベーターのボタンを押すのは労働になるので、安息日にはエレベーターは自動運転で全部の階に順番に止まっていくという話しを先週したけれど、これはエレベーターのボタンを押すことで火花が散るかもしれない、火花が散ると言うことは火を使うことになるという理屈だそうだ。また家のブレーカーが落ちたとしても、それを戻すと火花が散るかもしれないので安息日には自分では戻せなくて、ある日本人はユダヤ人から安息日にブレーカーが落ちたので戻してくれと頼まれた、なんて話しもあるそうだ。
ちょっと笑い話みたいだけれど、かつては戦争の時でも安息日には殺されることが分かっていても戦うことをしなかったなんて話しもあるそうで、ユダヤ人たちは命をかけて必死に安息日の律法を守っていたようだ。
安息?
そして病気の治療も、すぐに治療しないと命に関わるというような時は許されていたそうだけれど、そうでない時は安息日にしてはいけないことだったようだ。
会堂に片手の萎えた人がいたと書かれているが、片手が萎えているということは今すぐ治療しないと死んでしまうなんてことはないということだ。そういう人を治療することは安息日には許されないことになっていた。
ということで人々はイエスが安息日に病気をいやされるかどうかを固唾を飲んで見守っていたらしい。病気が治るかどうかではなくて、イエスが仕事をするかどうか、安息日の律法に違反するかどうかを見守っていたようだ。その頃は既にイエスは律法破りの常習犯であると見なされていたということかな。
イエスは彼らに問いかける、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
ちょっと不思議な質問というか答えにくい質問だなと思う。彼らは黙っていたとか、イエスが怒ったり彼らのかたくなな心を悲しんだとか書いてあるけれど、やっぱりちょっと答えにくい質問だったんじゃないかと思う。
どっちか選べと言われれば善を行うことや命を救いことと言いたいけれど、じゃあ善を行うことや緊急以外で命を救うことが全面的に安息日に許されているかというと、それが労働になるならば許されていない、どっちが許されているかと問われても、善を行うこと命を救うことと無条件には言えない、というのが本心だったんじゃないのかな。
基本的には善を行うことや命を救うことをするべきだ、それが律法で許されていることだとみんな思っていただろうと思う。問題はそれを安息日にする必要があるのかということだったんだと思う。片手の萎えた人を癒すのはいいことだ、でもそれをあえて安息日にする必要があるのか、明日でもいいじゃないかということだったんじゃないだろうか。
イエスもわざわざ安息日に癒さなくても、次の日に癒せば何の問題もなかったんだろうと思う。しかしそれを安息日に癒した、それもみんなの前で癒した、それは安息日とはなんなのかということをみんなに知らせるため、あるいは考えさせるために、敢えて安息日にいやしたのだろうと思う。
解放
そもそも安息日はどんな日だったのだろうか。
安息日とは神が仕事をするな、休めと言われて労働をしない日だった。一日仕事をしない、家事もしない、そんな労働を手放す日、言わば日常のしがらみから解放される日だったんだろうと思う。日常の労働を止めて一度手放す、そんな神から与えられたつかの間の解放の喜びを感じる日だったんじゃないかと思う。
でもそれがいつしか、あれもこれもしてはいけないといういろんな規則に縛れる日になってしまっていたんだろうと思う。だいたい出エジプト記の書き方が悪いんじゃないかという気がしている。仕事をするものは死刑だなんて言われたらおちおち休んでいられないだろうと思う。
礼拝
私たちの日曜日の礼拝も守らないといけない律法ではないだろう。休んではいけないから礼拝に来るわけではないと思う。
礼拝も解放なんじゃないかと思う。週日の仕事を敢えて中断して、一区切りをつけて神の前に佇むことなんだろうと思う。仕事と一緒に週日のいろんな悩みや苦しみや重荷、そんな自分が抱えているものを、一度神の前に降ろす、そこでしばし休息する、それが礼拝なんじゃないかと思っている。そしてまた改めて背負っていく。神の前に降ろしたからと言っても仕事も重荷も減るわけではないだろう。けれど一度降ろすことでまたそれを背負っていく力が出てくるのだと思う。
小さい子どもが公園で遊んでいるような状況に似ているような気がしている。転んだりぶつかったり、何かあると子どもは親のところへ戻ってくる。しばらく親にだっこされているとまた元気になり走り回る。礼拝もそんな感じじゃないのかな。
イエスは安息日に律法で許されているのはどっちか、なんて何だか答えにくい質問をしたけれど、そもそも何が許されていて何が許されていないかなんて考えること自体が間違っているということかもしれないという気がしている。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)
とにかく休め、しっかり休め、お前の背負っているものを一旦降ろせ、そしてまた明日背負っていけばいい、そのための安息日だ、なんだかそう言われているような気がしている。