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礼拝メッセージより



「本末転倒」 2023年10月8日
聖書:マルコによる福音書 2章23-28節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)

 23節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると」。そこで事件が起こった。
 さて安息日とは旧約聖書によると、創世記2章にあるように、神が天地を作ったときに7日目に休んだということに由来する。そしてモーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日のあいだ働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と出エジプト記20章に書いてある。
 また出エジプト記の34:21にも、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作のときにも、収穫のときにも、仕事をやめねばならない」と書いてある。さらに35:2には「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」とまで書いている。
 こういう風に、安息日には休まにゃならんという決まりがあった。そういう律法があった。安息日には労働をしてはいけなかった。で問題は何が労働なのかということ。そこで律法の学者はこの安息日の律法を具体的に日常生活にあてはめるために39の規則を作り、さらにそのひとつひとつを6つの細則に分けていたそうだ。ということは全部で234の細則があったということらしい。
 中には、ハンカチを持って歩くのが労働になり、腕にまくのが労働ではない、というようなことを真面目に議論していたらしい。ちなみに今では、エレベーターのボタンを押すのは労働に入っているそうだ。
 安息日に種まきや耕作、取り入れをするなんてことは当然絶対駄目、だった。しかし、イエスの弟子たちはその安息日に麦の穂を摘みはじめてしまった。
 これをファリサイ派の人々が見て、「なんであんたの弟子は安息日にしてはいかんことをするのか」と質問する、と言うよりも詰め寄っている。麦の穂を摘むことは許されていたそうだ。申命記23;26「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」とある。
 人の畑の麦の穂を勝手に摘むことをだめだと言ったのではなく、問題は、それを安息日にしたことだった。

 これに対してイエスは、「ダビデが、自分の供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」と答えた。このことはサムエル記上の21;1-6に書いてある。ところがサムエル記にははアビアタルではなく、アヒメレクと書いてある。ちょっと困ってしまう。イエスが間違ったのか、マルコが間違ったのか。

 ファリサイ派にとって、安息日はどんな日だったのだろうか。彼らにとっては決して喜ばしい日ではなかったんだろうと思う。ただ何もしない、と言うよりも何もしてはいけない日だった。これはいいか、あれはいいか、許されるか、律法違反ではないか、そんなことを一生懸命に考えて、いつもびくびくしている、そんなかなりしんどい一日だったんだろうと思う。
 ファリサイ派は自分たちがそうやって異常なほどに神経質になっているだけではなく、同じことを回りの者にも押しつけていた。俺たちはこれほどやっているんだという誇りと、お前たちは何をやっているんだ、ちゃんとせんか、やっぱりお前たちは駄目だという風に何も知らないという人を裁く気持ちの両方を持つようになっていたようだ。

 はじめに律法ありき、はじめに安息日ありき、そういう気持ちを持っていたようだ。彼らだって自分たちの良心に従って、ユダヤ教という宗教を守っていただろうと思う。そうすることが、律法を必死に守ることが神に対する忠誠の現れであると考えていただろう。実際、その忠誠心は大したもの、その熱心さはちょっとやそっとじゃ真似できないようなものだったようで、その忠誠心がユダヤ教を支えてもいた。
 彼らは律法を守り、ユダヤ教を守っていた。律法を守る集団はずっと生き延びていた。それを必死に守っていた。しかし律法を最も大事なものとすることで、いつしか人間のいのちよりも律法を重んじるようになったようだ。というかほんの些細なことにも律法を持ち出して、いつも違反していないかどうかという目で世界を見ていたのだろうと思う。

 イエスは言った、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。

 同じ内容のことがルカによる福音書6;1以下にも載っていて、そこでは「弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」と書かれている。またマタイによる福音書12:1以下にも載っていて、そこでは「弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」と書いてある。何故だかわからないけれど、今日のマルコによる福音書では食べたとか書いていない。
 麦の穂って摘んですぐに食べられるのかな。と思ってネット見てると、「小麦の穂を何本か引き抜き、実を食べたものでした。穂をしごいて手で揉むと容易に殻が取れ、裸の実になります。これを口に放り込んで噛んでいるとガム状になって甘味が出て、美味しかった覚えがあります。」と書いてあった。

 実はある牧師の説教を見ていると、子どもの頃に麦を噛みつづけて、チューインガムのようにねばりけのあるところまで、誰が一番早くできるか比べっこをして遊んだ、そしてこの場面では、何故だかよく分からないけれど、飢えた弟子たちを守るイエスよりも、熱心に子どものように麦の穂をつみながら、遊びながら、あとをついてくる弟子たちを抱えるイエスのイメージが抜けない、と書いてあった。

 この人の言いたいことがよく分かった、という訳ではないけれど、なんだか不思議な感覚になっている。
 ファリサイ派の人たちは事細かなことまで律法を持ち出して、許されているとか許されてないとか言って、いつも気を張って生きているような感じがする。
 それに対して礼拝のメッセージで、ファリサイ派は間違っている、ファリサイ派のここがおかしい、イエスの方が正しいんだ、イエスの言うように生きないといけないんだ、と一所懸命に弁明しようとしているんじゃないかという気がしてきた。なんだか自分もファリサイ派と対抗するように、ファリサイ派と同じように気を張っているんじゃないかという気がする。

 イエスは、そんなにいつもいつもカリカリするなよ、もっと力抜けよ、と言っているような気がしている。それはファリサイ派に対してもそうだし、自分に対してもそう言われているような気になっている。そう思ってなんだかすごくホッとしている。
 安息日って、力を抜く日なのではないのかな。