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礼拝メッセージより
断食
今日の聖書の箇所では断食の話しが出てくる。
旧約聖書の規定では断食は年に1回だけだが、当時ファリサイ派の人達は週に2日、月曜と木曜に断食していたそうだ。
そもそも断食ってなんなんだろう。
ダビデが自分の部下の妻との間に子どもができて、それを誤魔化そうとして部下を戦死させたときに、預言者からその罪を指摘されて断食したということもあった。そんな風に罪を犯したことを知った後に断食をしたという話しがいろいろある。あるいは悲しい出来事があったときに断食したという話もある。
ある人の説教に、
『「断食」の由来は元々、年に一度秋に行われた「贖いの日」には、「自分
を拷問にかけよ」という規定(レビ記23:27)があって、これが「断食」の意味に解釈されました。神の前に罪を思って悲しみを表わすことが、断食の目的だったのです。』
と書いてあった。
そのレビ記にはこう書いてある。
「第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。この日にはいかなる仕事もしてはならない。この日は贖罪日であり、あなたたちの神、主の御前においてあなたたちのために罪の贖いの儀式を行う日である。この日に苦行をしない者は皆、民の中から断たれる。また、この日に仕事をする者はだれであれ、わたしはその者を民の中から滅ぼす。あなたたちは、いかなる仕事もしてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。この日はあなたたちの最も厳かな安息日であり、あなたたちは苦行をせねばならない。この月の九日の夕暮れから翌日の夕暮れまでを安息日として安息しなさい。」(レビ記23:27-32)
と書いてあった。新共同訳では拷問ではなくて苦行と訳していた。
そのように律法では年に一度断食するということになっていたけれど、バビロン捕囚の時代になると年に四回断食するようになっていたそうだ。一回では足りない、国が滅ぼされたのは年に一回の断食では足りないほど大きな罪だったというような気持ちだったのだろうと思う。
そしてイエス・キリストの時代にはファリサイ派の人たちは週に二度、月曜と木曜に断食するようになったそうだ。
何のために断食するんだろうか。食を断つことにどんな意味があるんだろうか。罪を悔いて苦行をするためなのだと言われるけれど、苦行することにどんな意味があるんだろうか。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちはそんな思いで断食していたのだろうか。とにかく彼らはよく断食していたようだ。そこで、彼らは断食してるのにあなたの弟子たちはどうして断食しないのか、とイエスに言う人たちがいたと書かれている。
断食というのは宗教グループが当たり前に行う事、断食しないことが珍しがられるようなことだったのだろう。
それに対するイエスの返事は、婚礼の席で断食はできないだろうというものだった。この返事はなんなんだろうか。
ということはイエスは自分達は結婚式に招かれているようなグループだと言っているようだ。イエスは結婚式に招くように弟子たちを招いているということなんだろう。
旧約聖書を読んでいると、当時の人々は神を怒らせないように怒らせないようにと一所懸命になっているように感じる。神に背いてしまうと、つまりそれが罪ということみたいだけれど、そのために神の裁きにあい罰を受けてしまう、だからなるべく罪を犯さないようにして、でもどうしても犯してしまうこともあるのでその罪を赦してもらうために犠牲を献げて赦してもらおうとしているようだ。断食をそんな感覚なのかなと思う。自分が悔いているという姿を見せて神に分かってもらおうということだったのかなと思う。ユダヤ人たちはそんな風にいつも神を恐れながら一所懸命に宥めているように感じる。
それなのにイエスは自分達は結婚式のように喜び楽しむグループなのだと言っているということだ。まるで感覚が違う。
布切れと革袋
その後に古い服に新しい布切れで継ぎを当てたりしないという話しと、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしないという話しがある。
新しい布切れは洗うとよく縮むということで、古い服を余計に引き裂くそうだ。また新しいぶどう酒はよく発酵するので古い革袋だと耐えられないそうだ。多分どちらも誰もが知っている、当たり前のことなんだろう。
ファリサイ派の人達もヨハネの弟子たちも、信仰とは苦行だというような感覚があるような気がする。というか一般的にもそんな感覚があるんじゃないかと思う。いろんなことを我慢することが信仰深いことであるかのように思ってしまいがちだ。だから断食しなくてもいいのか、我慢して耐えてこそ得られるものがあるんではないか、本当に苦行をしなくていいんだろうか、なんて心配にもなる。
でもイエスはここでいうように、私たちは婚礼の客として招かれていると言っている。婚礼の客としてその食卓に着くこと、喜びの食卓に着くこと、それがイエスの言う信仰なのではないかと思う。
イエスは全く新しいことを言っているんだと思う。だからイエスが新しいぶどう酒は新しい革袋にと話したように、私たちは全く新しい革袋のような気持ちでイエスの言葉を聞くことが大事なのではないかと思う。
革袋
断食の話しで言うと、イエスは断食する時は隠れて断食しなさいという箇所もあるけれど、今日のところでは正しい断食をしないと駄目だと言っているわけではなくて、あなたたちは婚礼の客として招かれているのだ、神を信じるとは喜びなのだということを言っているように思う。
新しい革袋でイエスの言葉を聞く時、つまり先入観を無くしてイエスの言葉を聞く時、イエスの語ることが聞こえてくるのだと思う。つまり教訓とか教義、立派な教えとして聞くのではなく、自分自身に語りかける言葉としてイエスの言葉を聞く時、その言葉は私たちを力づけ慰めるものとなるんだと思う。
イエスの言葉は、革袋をどんどん膨らます力のあるもの、もともと私たちを揺り動かす力のあるもの、私たちの心をわくわくさせるものだと思う。
私たちが喜びわくわくする、それこそが私たちの信仰なのだと思う。