【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
洪水
人間の堕落を見かねた神は地上に洪水を起こして地上の一切のものを滅ぼすことにしたことが6章位から書かれている。ただノアの造った箱舟に乗ったものだけは助かった。
40日間とか150日間とか、長い間雨が降り続き、洪水が起きたけれど、水が引いてノアたちは箱舟から出てくる。そして家畜と鳥を焼き尽くす献げ物としてささげた。そうすると主は宥めの香りをかいで大地を呪うことは二度とすまい、なんてことを自分に言ったなんてことが8章までに書かれている。
産めよ、増えよ、地に満ちよ。
それに続いて9章ではノアと息子たちに向かって、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言って祝福した。これは創世記1章にある天地創造の際に人を創った時に語った言葉だ。堕落した人間を一掃して、もう一度創造のやり直し、振り出しからもう一度再出発というような感じなのかなと思う。
人は最初から神に逆らってばかり、神の命令に背いてばかりである。神が人を造ったのだからそんな出来損ないは全部無くしてしまった方がよっぽど早い話だと思う。しかし神はそうしない。全部滅ぼそうとしつつ、箱舟に乗ったものだけは残す。
産めよ、増えよ、地に満ちよ、という言葉に続いて、神は全ての動物をあなたたちの手にゆだねる、そして動いている命あるものはすべてあなたたちの食料とするがよい、なんてことを言っている。天地創造の時には草と木が食べ物として与えられたとあるけれど、ここではじめて肉を食べてもいいと言われているそうだ。けれど肉は命である血を含んだまま食べてはならないと言われている。ユダヤ人は血に命があると考えているそうだ。確かに血がなくなると死んでしまうけれど、この感覚はよく分からない。それに続く血の賠償というのもよく分からない。
契約
もう二度と洪水を起こして地を滅ぼすことはしないという契約を立てる。そしてそのしるしは雲の中に虹をおくことである、という。
契約という言葉にはなっているけれど、契約というよりも神の一方的な宣言という感じがする。契約というのは両者が合意して結ぶものと思うけれど、これは神の勝手な言い分だけだ。神は地を滅ぼし尽くすことはしないというが、それに対して地に住むものが守るべき条件も何もない。これこれこういう悪いことをしなければとか、こういう風な良いことをすれば、というような条件が何もない。ただ、もう二度と洪水は起こさない、地を滅ぼし尽くすことはない、というのだ。ということは何が起ころうと、地上の者がどんな風になろうと、洪水は起こさない、という神の宣言というか決意みたいなものだと思う。
つまり人間がどれほど悪い者であっても、罪深い者となっても、洪水を起こして全部ほろぼすような事はない、ということだ。
虹
そして神は契約のしるしとして虹をおくという。
虹とは弓矢の弓という意味も持っている言葉だそうだ。英語では虹のことをrainbow という。これも rain とbow を別々に訳すと雨の弓になる。武器となるその弓をおく、ということは手にその弓を、武器を持たない、というふうに考えることもできるそうだ。虹が現れるとき、それは神が弓を手放しているというしるしという風にも考えることができるという説明がいっぱいあった。
その弓によって放たれたのが洪水だったということなのかな。それはいいとして、どこかの牧師が、虹はその弓を天に向けているということだと書いてあってそっちの説明の方がかっこいいなと思った。虹は空の上の方が弧になっていて、それで矢を放つと矢は天に向かって飛んで行く、それは地に向かって矢を放たないということだというようなことを書いてあった。そっちの方が象徴的で良い感じがする。
変化
そうやってもう地を滅ぼすような洪水は起こさないと言われてはいるけれど、やはり人間は罪を犯し続けている。ノアも直後に酔っぱらって裸で寝ていたと書かれている。その後の人間たちを見ても、洪水の後になっても立派な人間ばかりになったわけではない。相変わらず悪いことを考える罪人ばかりである。しかし神はその人間をもう滅ぼすようなことはしないというのだ。人間側は本質的に何にも変わりがないようだ。相変わらず神に逆らい罪を犯し続けている。しかし神はもう滅ぼさないという風に変わった。神の方が変わった。一度は洪水を起こしたが、もう二度と起こさないというのだ。何があろうと起こさないというのだ。
「6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」と言っていた神が、今度は「8:21人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」と変わっている。
人が悪いことを考えることは変わってはいない。しかしその人に対する神の思いは全く変わっている。神ってのはどこかに鎮座ましまして全く動かないもののようなイメージがあるが、聖書の神はそうではないらしい。
神の言葉を聞かず反逆する者に対して、遙か彼方へ追い出してしまうというような仕方ではなく、逆に神の方からどんどん人に近づいていくという仕方で接していくことにしたかのようだ。
関心
神は天地を作り人を造った。しかし人は神の言葉に従わずエデンの園から追い出されてしまう。しかしその人のところへ神が出てきてまた関わっている。そこでまた神の言葉に逆らっても、またその逆らうものに関わっていく。全部滅ぼしてしまえばすっきりすると思うのにそれもしないでやっぱり関わっていく。これからはずっと人間の味方になろうとしているようだ。
こんな話を聞いたことがある。
確か高校生だったかな、二人の若者が盗みをした。主犯格と誘われてついていったもう一人の二人とも捕まった。誘われてついていった方の親はそれを聞いて、やっぱりしたか、いつかお前はそんなことをするだろうと思っていた、と言った。もう一人の主犯格の親は、お前は本当はそんなことをする人間ではない、と言うようなことを言ったそうだ。やがて主犯格の若者は盗みをするようなことはなくなり、やっぱりしたかといわれた若者は犯罪を犯し刑務所に行くようになったそうだ。信じた通りに子どもは育つ、と聞いたことがあるけれど、どうもそれは本当らしい。
お前はそうなのだ、といわれることで実際にそうなってくるらしい。お前は泥棒になる思っていたと言われることで泥棒になり、泥棒になるはずがないと言われることでならなくなるような面がある。
人間は、お前が大事だと言われることで、そう扱われることで人は大事なものとなってくるらしい。自分の大事さは他の者から大事にされることで生まれてくるようだ。
光が射した
国が滅ぼされてバビロンに補囚されたユダヤ人たちは打ちのめされていたんだろうと思う。それはノアの物語で堕落した民が洪水によって一掃されたように、自分達が堕落したために自分達の国も一掃されてしまったと考えたんだろうと思う。
けれどもそんな自分達も完全に滅ぼされたわけではない、神に従うノアの家族が残されたように、神に従うならば自分達も再出発できる、この話しはそんな希望を与える物語なんだと思う。大丈夫、希望はある、あきらめるなと言っているような気がする。
虹を見るとなんだかワクワクする。虹は雨が降った後に光が射すことで見える。光が射さないと見えない、と思う。多分。
虹を見るときには神の光が射しているということを思い出しなさい、お前が大事なのだ、お前のことを見捨てない、そんな神の光が射しているということを思い出しなさい、そう言われているんじゃないだろうか。
失敗したり挫折したり、自分の駄目さや罪深さに打ちのめされてしまうこともあるかもしれない、きっとあるだろう、けれどもあきらめるな、あきらめる必要はない、あなたにも神の光が射している。この物語はそう告げているのではないか。
そして私たちにも神の光が射している、そのしるしはイエスだろう。それはイエスを見ることで神の光が私たちを照らしていることが分かる。イエスを見ることで神が私たちを愛していることが分かる。