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礼拝メッセージより
どれほど
創世記7章から実際に洪水が起こる話しが始まる。
ところでノアと家族はどれ位の間、箱舟の中にいたのだろうか。
7章11節に「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。」とある。その後雨が降って洪水になり、その水が段々減ってきて、地表がすっかり乾いたのが8章に書いてあるようにノアが六百一歳の二月二十七日で、その日に神が箱舟から出るようにと言ったので外に出た。ということは箱舟に入っていたのは丁度1年間ということになるのかなと思っていた。
例によってインターネットで色んな人の説教を見ていたら、この洪水の話しは二つの資料が混在しているとのことだった。
7:12では40日40夜雨が降って、7:17では洪水は40日間地上を覆ったとある。そして8:6では40日たって箱舟の窓を開いて鳥を放したとある。
一方、7:24では水は150日の間地上で勢いを失わず、8:3以下では150日の後に水が減って7月17日にアララト山の上に止まったとある。150日は5ヶ月だけれど、7:11に2月17日に大いなる深淵の源がことごとく裂け天の窓を開かれた時から丁度5ヶ月後となる。
7月17日にアララト山の上に止まったかと思ったら、8:5では10月1日になってやっと山々の頂が現れたと書いてあって、なんだかよくわからない。
ということで、2月17日に箱舟に入って、次の年の2月27日に出て一年間箱舟に乗っていたという話しと、多分40日の雨ののち40日洪水が続いて40日で水が引くという4ヶ月くらいという話しの、二つの話しがごっちゃになっているそうだ。
ついでに言うと、箱舟の乗った動物は6:19では雄と雌の二つずつとなっていて7:15でも二つずつとなっている。でも7:2以下では、清い動物7つがいと清くない動物1つがいと空の鳥7つがいとある。
洪水
この洪水物語のもととなったとような話しが、メソポタミアのシュメール人が持っていたそうで、それが書かれた粘土板が見つかっているそうだ。そこには、ある神が他の神々に向かって、人類を洪水から救済すべきである、そうすれば人間どもは町や神殿を建てるであろうと語ったということが書いてあるそうだ。
創世記はユダヤ人がバビロンに補囚されていた時代にまとめられたようだけれど、バビロンはメソポタミアにあるわけで、シュメール人の洪水物語も伝わっていて、ユダヤ人たちもそれを聞いて感じるものがあったということなんだろうと思う。
バビロニアに征服されてエルサレムの町も神殿も破壊され、有力者の多くもバビロンへと補囚されていた。それは洪水によってほとんどすべて押し流されて水の中に沈んでしまったようなものだったのだろう。なぜそんなことになってしまったのかというと、それは自分達が神の声を聞いてこなかったから、神の声に従ってこなかったから、その結果6:5にあるように「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計」ようになってしまったと考えたようだ。ノアの周りにいた人々の姿こそがかつてのユダヤ人たちの姿を現しているのだと思う。
救い
洪水によってすべてを押し流されてしまっかのように国は滅ぼされてしまっている、しかしノアを残され、そこから再出発させたように、自分達もきっとやり直せる、自分達がノアとなってもう一度やり直すんだ、そんな希望をこの物語に託しているようだ。
箱舟から出たノアは祭壇を築いて焼き尽くす献げ物をささげたとある。(雄と雌と二つしかいないとしたら、それを献げ物にしてしまうと絶滅してしまう。)箱舟の大きさはエルサレムの神殿の大きさと同じになっているそうだ。ノアの献げ物は、ユダヤ人たちがこれからやっていこうとしていることを示しているのだろう。つまりこれからはしっかりと神を見て、神との関係を大事にしていこうという決意をノアに託しているのだと思う。
21-22節に神がみ心に言われたという言葉がある。神が自分の心に語るとはどういうことかよく分からないけれど、ここに国も滅ぼされすべてをなくしてしまっているユダヤ人たちの希望が語られているようだ。自分達が心に思うことは確かに幼いときから悪いことばかりだ、生まれながらに悪い思いを持っていて、これはもうぬぐい去りようにない、けれども神は二度と大地を呪うことはしない、二度と洪水は起こさない、国土を荒廃させるようなことは二度としない、そんな神の声をユダヤ人たちは聴き取っていたのだろう。
再出発
生まれながらに悪い思いを持っている自分達である。しかしそんな中でも神はノアを残された。ノアは神の命令に従うことで生き残った。
バビロン捕囚に遭っている今は国も滅ぼされてしまっている。それはまさに洪水で何もかも流されたような状態だ。しかし今から再出発だ、ノアがまず祭壇を築いて献げ物をしたように、自分達も神に聞き従うことからはじめていこう、それが自分達の再出発だ、そんな決意の現れがあるようだ。
そうすればもう二度とこんな洪水に遭うようなことはない、種まきも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜もやむことはないと言われている。補囚の後にはそんな毎日の営み、毎年の営みが続いていくのだ、バビロン捕囚の苦しみの中でそんな神の約束を聞いたのだろう。だからこそその神の約束を心に秘めて、神の声を聞いて神と共に生きていこう、今から、ここから再出発だ、大丈夫、神に希望を持てば必ず出発できる、そのことを伝えているのではないかと思う。