【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
洪水物語
洪水物語は世界各地にあるそうだ。その中でもバビロニアの遺跡から発見された「ギルガメッシュ叙事詩」は今から5千年くらい前に書かれたもので、最古の物語だと考えられているそうだ。
創世記6章は8節まではダビデ・ソロモンの時代に書かれて、9節以下はバビロン捕囚時代に書かれたものらしい。8節までは「主」となっているが、9節以下は「神」となっている。
バビロンのあるメソポタニア地方には、チグリスとユーフラテスという大きな川があって、洪水も度々起こっていたようだ。
ギルガメシュ叙事詩では洪水に関してこんな物語があるそうだ。
神々の一人天空の神エンリルが、増え過ぎた人間たちの騒ぎ立てる音でついに不眠症になってしまう。苛立ったエンリルは様々な天変地異をもたらして人間たちに反省を促そうとしたが、人間は少しも改める様子がなく彼らの騒ぎ立てる騒音はますますひどくなる一方であった。
頭に来たエンリルは大洪水を起こしてすべてを始末してしまおうと考えた。しかし寸前のところで出産の女神イシュタルは絶望のあまり泣き出し、知恵の神エアは好意を持った一部の人間に箱舟のつくり方を教えて、様々な動物とともに大洪水から救ったのであった。こうして、人間は、繁殖と知恵の神の計らいで辛くも滅ぼされそうになったところを救われた。
そんな物語になっているそうだ。
どうやらノアの物語もこのような物語を参考にして書かれているようだ。
悪
11節では「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」とあり、12節でも「見よ、それ堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」とある。堕落って言葉が3回も繰り返し出てくる。堕落ってどういうことなんだろうか。具体的なことは書かれていない。
5節でも「主は、地上に悪が増し、悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあって、悪いことがなんなのか具体的なことはない。どっちも具体的なことが出てこないのはなぜなんだろう。物語だからそんなものなんだろうか。
それは置いといて、神はここで人を造ったことを後悔し、心を痛められた、というのだ。
造ったけれど出来損ないだったので処分してしまおうということだろうか。自分の造ったものが全く自分の思い通りに動かないと壊したくもなる気持ちも分かる。
洪水
そこで神はその地上の堕落を一掃するために洪水を起こすことにした、というのだ。しかしノアとその一家だけは救われることになった。そのためにノアに箱舟を造るように命じた。箱舟という言葉は、もともとはただ単に箱という意味だそうだ。前に進む必要のない、浮かんでいればいい箱ということだ。
寸法は、長さが300アンマ、幅が50アンマ、高さが30アンマ。1アンマが肘から中指までの長さだそうで45cmくらい。ということはこの運ぶ名は長さが135m、幅が22.5m、高さが13.5m位になる。相当な大きさになる。いきなりこんなものを造れと言われても、無理ですって言いたくなりそうだ。
何かの映画でノアがこの箱舟を造るシーンがあった。そこでは周りの者たちが飲めや歌えで楽しんでいる最中にも、ノアの一家が箱舟を造るというのがあった。周りの者たちから、そんなもの造ってどうするのだ、こんな山の中でそんなもの一体何に使うのだ、頭おかしくなったんじゃないか、なんて罵声を浴びながら造っていたように記憶している。
神殿
とんでもない大きな箱舟を造れという話しになっているが、実はこの箱舟の大きさは、ソロモンの神殿やエゼキエルが幻の中で示された再建されるべきエルサレム神殿と同じ大きさになっているらしい。神殿とか前の庭とかを合わせると丁度同じになるそうだ。箱舟は神殿を象徴しているということのようだ。
つまり箱舟を造るということは神殿を造るということであり、神との関係を造るということ、神との正しい関係を造るということを象徴しているのだと思う。
希望
古来、洪水をはじめいろいろな災害が神とか神々の所為で起こると考えられてきた。神の機嫌を損ねたり、神の怒りを買った結果災害が起こると考えられてきた。
ユダヤ人たちも同じような考えを持っているようだ。国が滅ぼされバビロンに補囚されたユダヤ人たちは、そんな状況を洪水になぞらえているのではないかという気がしている。
洪水によって何もかも滅ぼされてしまったように、自分達の国は滅ぼされてしまっている訳だ。そしてそんなことになってしまった原因は、自分達が神の前に堕落し不法に満ちていたからだ。まさに神によって自分達の国は終わらせられたのだ。ユダヤ人たちはそう考えたのだろう。
しかしすべてを滅ぼす洪水の中でも救いが残されていた。その唯一の救いがノアだった。
同じように、全て滅ぼされてしまったかのような自分達にも救いが残されている、この物語はその事を伝えようとしているのではないか。
ノアが神の命令に従って箱舟を作ったように、神の命令に忠実にしたがって神殿を作ること、そこに救いがある、まだ救いはあるんだと語っているようだ
何もかも無くしボロボロになったとしてもまだ救いはある、ノアのように神の声を聞き、神と共に生きること、そこに救いはある、そこに希望はある、まだ大丈夫だ、もう一度やりなおせる、この洪水物語はそういうことを伝えてくれているのではないかという気がしている。