【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
カインとアベル
4章の前半にカインとアベルが登場する。
アダムとエバの間に産まれたカインとアベル。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となった。二人はそれぞれ主なる神のもとに献げ物を持って来た。カインは土の実り、アベルは肥えた初子を献げた。しかし主はアベルの献げ物には目を留めたけれどカインの献げ物には目を留めなかった。激しく怒ったカインはアベルを殺してしまった。
その結果、カインは主の前を去ることになったという話しだ。
負いきれない罪
主からアベルのことを聞かれたカインは最初は知らんぷりをするが、お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる、なんてことを聞かされ、さらに土を耕しても作物を生み出すことはない、お前は地上をさまよい、さすらう者となる、なんてことを言われる。
弟殺しの罰を受ける、ということを神に聞かされて初めてカインは自分のしたことの大変さに気づいたかのようだ。嫉妬にかられていたときには分からなかったその罪の重さを神から指摘されて初めて気付いた、ということのようだ。
守り
カインは弟を殺したことで神に追放されさすらう者となれば、自分に出会う者は自分を殺すだろうと言った。さすらう者となったらどうして殺されることになるんだろうか。外の世界は殺し合う世界だということなんだろうか。よく分からない。自分を守ってくれる神に見放された世界では一人だけでは生きていけないということだろうか。
しかしそれに対して神は「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と言って、カインを撃つことのないようにしるしをつけたと言う。
しるしって何だろうか、どういうものなんだろうか。カインを撃つことのないようにするしるしって一体どんなものなんだろうか。こいつを殺すと七倍の復讐をするなんて刺青でも入れたんだろうかなんてことが気になるけれど、これまたよく分からない。よく分からないけれど主はカインを守るためのしるしを付けたということのようだ。
何故
この話しはそもそもが神がカインの献げ物に目を留めなかったことが発端だった。悪いのは神じゃないかという気もする。
しかし私たちの生きる世界は創世記のように神の声を直接聞くような世界ではない。神の思いというのは実際にはよくわからない世界に生きている。神が守ってくれた、本当に神はいるんだと思う時もあれば、神がいるのならどうしてこんなことが起こるのか、本当に神はいるのかと思うようなこともある。
不条理な世界である。どうして私だけがこんな思いにならないといけないのか、どうして私ばかりがこんなに苦しまないといけないのかと思うことがいっぱいある。そしてまわりに対して、特に弱い者に対して怒りをぶつけてしまう、それが私たちの現実だ。
それもこれも神がしたことなのだ、と納得できればいい。納得できる事ならば大した問題はない。しかしそうそう納得できない。どうしてだ、何故なのだ、という思いが沸き上がってくる。神を信じているのにどうしてこんなことになるのだ、ということもいっぱいある。
あの人はあんなにうまくいっているのに、どうして自分は駄目なのか、あいつはあんなに金持ちなのにどうして自分は貧しいのか、そんな風に周りと比較することで苦しみは倍増するような気がする。
あるいは結局は自分が悪いんだ、自分が罪深いからだと思うようなこともある。あの人達は神に祝福されている、でもこんな駄目な自分は、こんな罪深い自分は神に見放されるに違いない、もう見放されているんだ、周りからも見下されるに違いない、もう未来はない、神も守ってはくれない、、、。私たちはそんな風に勝手に思ってしまう、勝手にそう判断してあきらめてしまうことがある。
でも神は、いやそうではない、たとえあなたがそう思ったとしても私は諦めない、私は見捨てない、どこまでも関わっていく、いつまでも一緒にいる、神はそう言われているのだと思う。
自分には何も出来ない、何をする力も能力もないと言う私たちに向かって神は、いやそんなことはない、あれもできる、これもできるじゃないかと言われているのだろう。
また自分には何の価値もない、生きる価値もないと言う私たちに向かっては、いやあなたが大事だ、あなたは大切だ、あなたが大好きだと言われているようだ。
自分を否定する思いにとらわれることが多いけれど、でも神は、いや違い、いやそんなことはない、と叫んでいるように思う。
カインの末裔
創世記は第1世代であるアダムとエバが神の命令に背いたと語り、第2世代では殺人を犯したと語る。人間というのは造られた最初から罪にまみれていたというか、人間の本質とは罪なんだとでも言いたいかのようだ。
しかしそんな罪を犯した者にも、神は尚も語りかける。弟はどこにいるのか、何をしたのかと神は問いかけ続けておられる。間違い、失敗をする、殺人をする私たちをも尚も見捨てない、私たち自身に間違いを気付かせようとする神、尚も声をかけ、関わり続けようとする、それが私たちの神なのだと言いたいようだ。
私たちはカインの末裔、罪を犯し罰を受け苦しむ。そしてまわりからの攻撃を怯えて生きている。まさに罪深いカインの末裔でもあるのだろう。
しかしまた私たちもしるしを付けられているということを伝えているのではないか。神が共にいるというしるし、というか約束を貰っている、それが私たちのしるし、そんな神の守りというしるしを貰っている、そういう意味でもカインの末裔なのだと思う。
私たちはただ罪深いという意味でのカインの末裔ではなく、それでも神が共にいる、神の守りがあるという意味でのカインの末裔なのだと思う。