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礼拝メッセージより
比較
同じ親から産まれて同じ家庭で育った兄弟なのに、上の子と下の子はどうしてこんなに違うのか、というようなことを聞くことがある。確かに同じ環境で育ったのにどうして違うんだろうかと思っていたけれど、ある時誰だったか忘れたけれど、兄弟の環境は全然違うと言っているのを聞いたことがある。下の子は生まれた瞬間から上の子というライバルが存在していて、そういうライバルがいなかった上の子とは環境が全然違うんだと言っていた。同じ親で同じ家だとしても確かに全然違うよなとすごく納得した。
世の中には兄弟なんだから仲良くすべきみたいな風潮もある。親から愛情たっぷりに育てられれば仲良くできるのかもしれないけれど、兄弟で比較ばかりされていたりするとそうそう仲良くなんてなれないだろうし、綺麗事では住まないよなと思う。
献げ物
アダムとエバにカインとアベルという兄弟が生まれた。弟のアベルは羊を飼う者となり、兄のカインは土を耕す者となった。二人は共に神に献げ物をした。カインは土の実りを献げ物とした。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を献げ物にした。
ところが主はアベルの献げ物には目を留めたのに、カインの献げ物には目を留めなかったというのだ。なんというひどいことをするのだろうと思う。いったい何なのか。なんでそんな差別をするのだと思ってしまう。
これって兄弟を仲たがいさせるにはどうしたらいいかという見本なんじゃないのかとさえ思う。
カインは激しく怒って顔を伏せた。そりゃ怒るよ。せっかく献げ物を持ってきたのに知らん顔をされたらそりゃ怒るでしょう。
どうして神がカインの献げ物に目を留めなかったのかということはわからない。理由も書いてない。アベルは肥えた初子だったけど、カインは良い物じゃなかったからじゃないか、なんていう説明を聞くこともある。
新約聖書のヘブライ人への手紙11:4には、「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」と書かれている。けれどもそれも一つの想像に過ぎないし、少なくともそうだとは創世記には書いてない。
ある注解書によると、アベルとは、息、はかなさ、空虚さ、無意味、無価値、虚無といった意味の言葉だそうだ。
申命記の7:7には、なぜイスラエルの民が神に選ばれたのかという理由が書かれている。そこには「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と書かれている。
神が一番小さく弱い者を選ぶということは聖書の他の箇所にも出てくるけれど、アベルが小さく弱い者だったからアベルの供え物に目を留めたのかもしれない。或いは神はいつも弟の方を大事にするなんていう説もあるらしいけれど、だからと言ってカインの供え物に目を留めない理由がちっとも分からない。
いろいろ想像はできるけれど、聖書には明確な答えは書かれていない。神のみぞ知る、と言ったところだ。
カインにもその理由が分からなかった。理由が分からないからこそカインは怒ったに違いない。理由が分かれば、そして納得できる理由があるならば、例えば弟は一番に良い物をささげたのに自分は適当なものをささげたからだ、ということならばカインだって納得出来ただろう。納得できる理由が見あたらないというか理由も言って貰っていない、なのに神は自分の献げ物には目を留めず、弟の献げ物にだけ目を留めた、だからカインは怒ってしまったのだ。
嫉妬
理由も分からずどうして弟ばかり優遇されるのか、という嫉妬がカインの心に芽生えたのだろう。そう思うのも尤もだと思う。そりゃ怒るよなあ。
しかし主は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのかもしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」なんて言うのだ。それはないよと思う。アベルの献げ物にだけ目を留めておいて、カインの献げ物には目もくれなかったのに、その上この言いぐさはないんじゃないの、あんまりだよ、ちゃんと説明してやれよと思ってしまう。
問いかけ
人生は納得できないこと、理解できないこと、不条理が一杯だ。正直者が馬鹿を見ると思えるようなことも現実にはいっぱいある。どうしてあんないい人が苦しむのか、どうしてこんな人が早く死ぬのか、あるいは逆にどうしてあんな奴がいい思いをするのか、どうしてあんな奴がいい地位にいるのか、なんてことがいろいろある。
そして何よりどうして自分はこんなにしんどい思いをしなければならないのか、どうして自分がこんな目に遭わないといけないのか、どうしてこんな家に生まれたのか、それは切実な問いかけだ。どうして自分が、自分だけがこんな辛い人生を歩まねばならないのか、それはとても重い疑問である。比較対象が身近にいると余計にそう感じてしまう。
どうして自分の献げ物には目を留めてもらえないのか。どうして弟の方ばかり優遇されるのか、目障りだ、と思うようになることもうなずける。
語りかけ
怒るカインに向かって主は語りかけている。「どうして怒るのか、、、」。かなりひどい言い方だなあとは思う。けれども、とにかく語りかけている。もっと早くに語りかければよかったのにとも思うけれど、とにかく語りかけている。
しかしカインはそれに対して答えることはしない。怒りを内に秘めたまま、その怒りをひとかけらも外にこぼすまいとしているということでもあるかのように無言のままである。そしてアベルを野原に連れ出して殺してしまう。
本来カインの怒りの対象は神に向けるべきものであったはずなのに、その怒りの矛先は弟に向けてしまい、ついには弟を殺してしまう。
そうするとまた神はカインに語りかける。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」あんた知ってるんでしょという気がする。なのに弟はどこにいるのか、なんて聞くのかと思う。
本質
カインの怒りの根本は神が自分の献げ物に目を留めないで弟の献げ物に目を留めたということにあったはずだ。しかし結局カインは最後までその根本的な問題に対する問いかけをすることなく弟を殺してしまう。そしてさらにその殺人を隠そうとする。
弟を殺しても根本的な問題、つまり何故神が自分の献げ物に目を留めなかったのかということは解決するはずもないのに、そうしないではいられないほどに怒りは大きくなってしまっていたのだろうと思う。
しかしこのカインの気持ちがとてもよく理解できる。カインの姿は人間の本質を現しているということでもあるようだ。
どうして
不条理な世界である。どうして私だけがこんな思いにならないといけないのか、どうして私ばかりがこんなに苦しまないといけないのかと思うことがいっぱいある。そしてまわりに対して、特に弱い者に対して怒りをぶつける、それが私たちの現実だ。
創世記は昔こんなことがあったということよりも、今現在私たちが生きている世界がどういうものなのかを教えている物語であるような気がしている。つまり今がまさに不条理であり、何がどうしてこうなっているのか、どうして神がそれを許しているのか、そんなことも分からない、そして分からないから余計に不平と不満と怒りがわき上がってくる、そんな世界に私たちは生きているのだということを伝えているような気がしている。
何故なのか、どうしてなのか、それは神に問うしかないということかなと思う。納得できる答えが返ってこないかもしれないし、きっとそれがほとんどなのだろう。答えがないかもしれないけれども、それをひとりで抱え込むんじゃなくて神に向けろと言われているような気がしている。
同じように怒りも神に向けるようにと言われているような気がしている。怒りもひとりで抱え込んではいけない、その怒りを隣人に向けてはいけない、そうすることで余計苦しむことになるということを伝えているのではないかと思う。
疑問も怒りも、神にぶつけたところでどうなるかは分からない。しかし兎に角ひとりで抱え込んじゃいけない、それを人にぶつけるんじゃなくて神にぶつけろと言われているような気がしている。
ぶつけたからどうなるか分からない。それですっきりするかどうかも分からない。けれども兎に角神にぶつけろ、そう言われているのではないかと思う。