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礼拝メッセージより
合う助ける者
創世記2章での創造物語では、神は土の塵で人を造り、その人をあらゆる木を生えいでさせたエデンの園に置かれた。何もかも準備されたようなエデンの園に住まわせ、そこを耕し守るようにされた。
けれども神は、「人が独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう」と言った。そして土で獣や鳥を造ったけれども彼に合う助ける者とはならなかった、と書かれている。
「彼に合う助ける者を」というのはちょっと変な日本語だけれど、前の口語訳では「彼のために、ふさわしい助け手を」と訳されていた。ふさわしいと訳されていた言葉は「向かい合う」という意味の言葉だそうだ。
つまり彼に合う、というのは、彼にぴったりだとか釣り合いが採れているという意味ではなく、お互いに向かい合って生きるということらしい。そこで新共同訳では『ふさわしい助け手』ではなく『合う助ける者』と、ちょっと苦しい訳になっているようだ。
また『助ける』とは助手とかお手伝いというような時にも使う言葉だけれど、必ずしもそれだけではない。たとえば詩編70:6「 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」という中に出てくるように神がわたしの助けであるというときと同じ言葉が使われているそうだ。窮地に陥った時には、助ける側が助けられる側よりしっかりしてないと助けられない。
ここでいう「彼に合う助ける者」というのは、お互いに向かい合って生きるパートナー、ということのようだ。
そんな相手が見つからなかったので、神は人のあばら骨から女を造ったという。つまり肉体を二つに分けたようなものだ。そこで人は、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と言った。肉?人からは骨しかとってないけど、なんて思ってしまう。とにかくほとんど自分自身のように、自分の分身のような相手を、パートナーを神が造ったということだろう。
離れて
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と書かれている。ここを読むといつも思い出すけれど、父母を離れるのは男の方だ、と神学校の先生が言っていた。
また男は父母を離れて女と結ばれ、の『離れて』という言葉は、捨てるとうい意味の言葉だそうだ。結婚ということに関して飽くまでも個人と個人の関係ということを言っているらしい。
この2番目の創造物語は、イスラエルが繁栄している時にできた物語だそうだ。日本の殿様もそうだけれど、イスラエルの王たちも妻や側室を大勢持っていたようだ。男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる、と言うのは妻や側室をいっぱい抱えて、家を絶やさないことを大事に思っている人達にとっては耳の痛い言葉だろうと思う。この物語はそんなことに対する批判もここにあるのかもしれない。
それはとにかく、男と女は両者で一つ、二人が一緒にいて完全な人間というような、そういう存在ということだろう。片方がもう一方を支配しているというような関係ではなく、どっちかが偉いという関係でもないということだ。お互いに補い合う関係、一緒に生きる関係、というようなことだろう。
そういう風にこの物語は、夫婦の関係、男と女の関係をここで現しているということでもあるのだろうけれど、必ずしも夫婦のことだけに限定せずに、人間一般的なことと考えてもいいだろうと思う。
人は一人だけでは足りない、生きていけないような存在であり、一人では一体となることができない訳で、そういう足りなさというか欠けというか、そういうものを誰もが持っている、そしてその足りないところを互いにカバーし合って、補い合って生きるように、もともとそういう風に造られている生き物なのだ、ということもこの創造物語は伝えているのだと思う。
違い
自分とは違う女が作られたことで人は男であることを認識した。補い合うために、助け合うために人はみんな違うように造られているということでもある。同じであれば助けにはなれない。違いを持っているからこそ助けることができる。
その違いをどうするのかということが問題だ。
人は誰が一番偉いか、何が出来ることが一番優れていることかと争いたがる。私はこんなことが出来るといって自慢したり、こんなこともできないといって責めたりする。けれども人がいろんな違いを持っているのは、どうやら助け合うためらしいのだ。神は助ける者としてもう一人の者を造った、違う人間を造ったと書かれている。
今の社会は違いを認められにくい社会である。どうやら日本は特にそうらしい。そして競争ばかりしている。競争に勝つことが正義であって、お金をいっぱい儲けた者が成功者だと言われているように思う。そして周りに勝つことを目指して、お金をいっぱい集めることを目指している。違いを認めるだの、助け合うだの、何を甘ったれたことを言っているのかと言われているようだ。
当時のイスラエルは栄華を極めるような時期だったそうだが、自分達が競争を勝ち抜いた勝利者であり成功者であるというような思いでいたのではないかと思う。そうだとすると、人間は向かい合い助け合うように造られたと語るこの物語は、そんな社会の中ではとても過激な物語だったのかもしれないと思う。
裸
ひところ、人間とは人の間と書くように、独りでは生きていけない者だと言われていた。全くその通りだろう。どうやら人間とは人は人との繋がりを持つことで生きていける、そんな生き物らしい。だからこそその繋がりを大事にしなければいけないということだろう。
「人と妻は裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」という。
人には知られたくない部分がある。ありのままの自分を知られたくない。自分の弱さや醜さを知られることを嫌う。というか恐れているんじゃないかと思う。自分がいかにだめか、いかに醜いか、いかに汚いか、そんな自分のことを誰にも知られないように鎧を着けている。
しかしそもそも神が造った時に、人と助ける者とはそんな関係ではなかったと語っている。裸であることを恥ずかしいと思わない関係である。自分の弱さや醜さを知られることを恐れる必要がない関係だったのだと言っているようだ。隠さなくても大丈夫ということは、その弱さや醜さを卑下する必要がないということだろう。それを責められることもなかった、ということだろう。
向き合って
「教会の目的」という文章を思い出す。
『一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としての纏まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。(「神の風景」藤木正三)』
教会は、いろんな弱さや醜さや失敗を隠さなくてもいいところでありたいと思う。隠してはいけないということではないけれど、一所懸命隠さなくても大丈夫と思えるところでありたいと思う。弱さや醜さやだらしなさや、そういうことを含めて互いに認め合えるところでありたいと思う。互いに向かい合い、調和していくことを目指していきたいと思う。
二人は一体となると言われているが、一体となるというのは同じになるということでも、混じり合ってどっちがどっちかわからなくなるということではないだろう。欠けを持ったまま、違いを持ったまま、互いに向き合ってそこにいる、それがここでいう一体なのだと思う。
私たちは互いに助け合わないと生きられない者同士なのだ。関係を持たないでは生きられない者同士なのだ。助け合うというような関係を持つことで初めて生きることが出来る者同士なのだ。だからどちらが正しいと言って争うのではなく、また責め合うのでもなく、批判し合うのでもなく、助け合う関係を持ちたいと思う。そして愛し合い、いたわり合う関係を持ちたいと思う。そういう風に互いに向き合って生きていく、そもそも人はそのように造られているとこの物語は語っているのだと思う。