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礼拝メッセージより
焼く前に
今朝起きてテレビつけたら俳句の番組をやっていた。香水というテーマの俳句をいくつか紹介していて、その中でうろ覚えだけど「焼く前に 香水一滴 かけてやり」だったかな、そんな句があった。
香水をかける焼き物なんてあるんだろうか、クッキーに香水掛けていいんだろうかなんて思っていたら、火葬場で焼く前の句だった。
創造物語
創世記には二つの創造物語がある。2章4節後半からは二つめの創造物語が始まる。一つめの創造物語は神は天と地を創造した、という言葉から始まっているが、二つめは地と天を造るというふうに天と地が反対になっている。またそれまでは神と言われていたのが、ここからは主なる神と言われれている。
一つめの創造物語では、神が光あれとか大空あれ、と言葉によって創造したと書かれている。でもこの二つめでは、人を創る時のにまるで神が自分の手で粘土をこねたかのようだ。
どっちが正しいとかということではなく、それぞれの物語を通して神と人間、神とこの世界との関係を言おうとしているということだろう。
命の息
一つめの創造物語では人は最後に創られたが、二つめの創造物語ではまず神は人を造ったという。しかも土の塵で形をつくり、その鼻に命の息を吹き入れられたという。6節に括弧で書いてあるけれど、土はヘブライ語でアダーマーと言うらしくて、アダーマーから造ったからアーダーム、アダム、それが人であったということだ。
人の身体の成分は地球にある成分であって、結局地球からというか土から創られているということを知ったときにはちょっとびっくりした記憶がある。ちゃんと聖書にもそう書いてあってすごいなと思ったこともあった。でもよく考えたら、人が死んだ後土に埋めると土に戻るということを昔の人も体験していたんだろうなと思うと、昔の人の方がよく知っていたのかもしれないななんて思った。
そうやって土で造られた人だったけれど、形づくっただけではまだ生きていなくて、命の息を吹き入れられて生きる者となったと書かれている。なんだか最後に電源を入れて動き出したかのような感じがする。
エデンの園
神はその人を東の方のエデンに園を造ってそこに置いて、そこにはいろんな実をつける木を造った。また四つの川が流れ出ていた。第一の川ピションはハビラ地方全域を巡っていたとある。これはインドのガンジス川ではないかという説もあるがはっきりしないそうだ。第二のクシュ地方を巡っていたギホンという川だが、クシュとは今のエチオピアの辺りで、ギホンとはナイル川のことらしい。第三、第四のチグリス、ユーフラテスは今でもその名前になっているメソポタミア、現在のイラクを流れる大きな川だ。
ユダヤ地方は水が乏しくて、現代の領土問題も水を巡る争いなのだと聞いたことがある。そこで水が豊かにあるエデンという理想郷を神が用意してくれたと考えたようだ。
そして人にその園を耕し守るようにされた、と言うのだ。「耕す」という言葉は、奉仕する、仕える、とも訳される言葉だそうだ。耕すというのとだいぶイメージが違うけれど、この世界をしっかりと管理し守ること、それが命の息を吹き入れられた人間が神から与えられた大事な務めなのだというわけだ。
しかしそのエデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木もあり、人は善悪の知識の木からだけは食べてはいけない、食べると必ず死んでしまう、と言われている。
食べてはいけない木を、それも園の中央に生えさせたのは何でなんだろうか。もちろんそれはこの後の話の布石でもあるんだろうけれど。
おごり
この物語が出来たのは、紀元前10世紀頃のダビデ・ソロモン王の時代で、イスラエルが繁栄している時期だったと考えられているそうだ。国が大きく豊かになり、自分達の知恵や力に自信を持っていた時ということだろう。しかしそんな時に有頂天になり思い上がることのないように、そういうメッセージをこめた物語でもあるようだ。思い上がっている人達が大勢いて、自分達には知恵も力もあると思っていたのだろう。そういう人たちに対する戒めということでもあったのかなと思う。
この前虫に関するテレビを見た。その中で、虫は地球の変化に合わせて自分達を進化させてきたけれど、人間は自分たちに合わせて地球を変えようとしてきたなんて話しをしていた。
人間は自分達の都合で自然をどんどん壊してきた。海岸線はどんどん埋め立ててきた。干潟があるような浅い所は特に埋め立てやすかったのだろう。干潟なんて残していたって渡り鳥が喜ぶだけだから、埋め立ててそこに大きな工場とか大きな倉庫とか作った方が人間の役に立つと思っている。そうやって人間は自分の都合のいいように大地を作り替えてきた。
ところが大して役に立たないと思っていた干潟が実は海を浄化していた、きれいにしていたのだそうだ。人間は一方では汚れた水を海に流しながら、もう一方ではその海をきれいにする干潟をどんどんなくしていった。それが近代の人間の有り様だった。けれどもそうやってどんどん自然を壊していくことでいろんな弊害が出てきた。
今一番気になる問題は原発だ。ひところトイレのないマンションなんて言っていたけれど、使用済みの燃料を処理する方法もないままにどんどん作ってきた。核燃料というのは使用前よりも使用済みの方が遥かに危険で、それこそトイレに流すことができないで、10万年以上もプールに沈めて冷やし続けないといけない代物だそうだ。誰だったか、トイレのないマンションどころか糞まみれのマンションだと言っていた人がいたけれど、現実には処分しきれない核廃棄物がいっぱいあって、糞まみれのマンションがぴったりだと思う。
謙虚に
自分達は何でも分かっている、思うように何でもできる、人間はいつしかそんな気になっているのかもしれないと思う。
神を信じるなんてのは力のなかった過去の人間の産物だと思うようになった。おれたちにはこんな力がある、海を陸に変える力もある、すばらしいこの力で自分たちの地球を自分たちの住みやすいように変えよう、神を信じる必要もない、神の声を聞く必要もない、自分たちには智恵も力もあるのだ、そう思ってきたのではないか。
けれどもその結果が海を汚し空気を汚し、安全な食べ物を手に入れることもだんだんと難しい状況になってきている。環境ホルモンやアレルギーや放射能、いろんな問題が起こってきている。
自分たちが住みやすい世界を作っているはずだったのに、気が付くとずっと住みにくい世界になってしまっている。あるいはお金をもうけるためには少々の犠牲は仕方ない、金持ちになればいい生活ができるのだから、ということでもあったのかもしれない。ところがお金で買えない大事なものまで人間はどんどんなくしてしまっているのではないかと思う。
人間はやはり神にはなれない。日本では偉い人をまつって神として拝むということがあるけれど、人間が聖書の神のように天も地も造ったそのような神になることはできない。天地の全てを把握することもできない。人間とはそんな限界のある生き物である。いろんな技術も力も持つようになった、けれでも所詮は人間は人間なのだ。聖書が言うように、飽くまでも神に造られた者なのだ。だから神にはなれない、神の知恵を持つこともできない。何でも分かったと思うこと、何でも出来ると思うことは間違いなのだ。
人間は神の息を吹きかけられて生きるものとなったけれども、全能でも万能でもない、限界のあるものである。だから思い上がることなく、自分の限界を知り、まわりを大事にして、まわりと調和して生きていくようにと言われているのではないかという気がしている。
決して全能ではないし万能ではないということを知りつつ、間違ったり失敗したりする生き物であることを認めつつ、だからこそ、自然との関係、隣人との関係、そんなまわりとの関係を大事にしなさい、そして神に創られた人間として、神との関係を大事にしなさい、思い上がることなく、神の言葉を聞いて謙虚に生きていきなさいと言われているのではないか。