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礼拝メッセージより
不思議
創世記について何人かのメッセージをよんでいて、金子みすずのふしぎっていう詩を思い出した。
ふしぎ
金子みすず
わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの葉たべている、
かいこが白くなることが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。
よく見るととても皮肉っぽい詩だなという気がしてきた。ふしぎと思うことを誰に聞いても、そんなの当たり前だといって笑っているばかりで、ふしぎなことを不思議だと感じることもなくなっていると皮肉っている詩のような気がしてとても気に入っている。
聖書には不思議に思う話しがいっぱいある。でも案外そんなの当たり前だと思ったり、無理矢理解釈してい分かったような顔をしていたりってことが多いんじゃないかという気がしている。ふしぎなことは不思議なことだと感じるこころが大事なんじゃないだろうかと思った。
天と地といろんな生き物を創造し、26節では最後に神は人間を創造したと書いてある。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」って書いてあるけれど、我々って誰?神はひとりじゃなかったの?なのに複数になっているってどういうことなんだろうかと思う。
この箇所の神という言葉自体も、原語ではエロヒームという言葉でこれ自体が複数形になっている。いろいろな人のメッセージなんかを見ていると、尊厳を表す複数形だと言われているなんてことが書いてあったけど、全然理解できない。神は父と子と聖霊の三位一体だから複数なんだなんて言う人もいたけれど、それもどうかなという気がする。
また、我々にかたどり我々に似せて、という型どりとか似せてっていうのはどういうことなんだろうか。神に形があるんだろうか、神は人間の形をしているんだろうかなんてことも思ったりする。見えない神に形があるんだろうか、なんてことも思ったり。かたどって造ったというのは、人が神との人格的な交わりを持つものとして造ったのだということを言っている人もいたけれど、なんだかそれも分かるような分からないような話だ。
この辺りは不思議に思うことがいろいろあって面白い。
日曜日
それに続いて2章に入ると第七の日に神が仕事を離れて安息したなんて話しになっている。
今日は日曜日だけれど、日本で日曜日に休むというふうになったのは明治以降だそうだ。西洋のしきたりを取り入れたということらしい。その西洋で日曜日に休みとなったのは、結局は旧約聖書の創世記で、神が天地を6日間で創って7日目に安息した、となっているということかららしい。一週間が日曜日に始まるので7日目とは土曜日ということになる。そこでユダヤ教では土曜日が安息日ということになっている。けれどもキリスト教ではイエス・キリストが日曜日に復活したということでだんだんと日曜日を休みとするようになったそうだ。
その7日目を休みとするという根拠となったのが、今日の聖書の箇所になるのかな。
しかし6日間で天地を創造したのあれば一週間は6日間で良さそうな気もする。2:1でも「天地万物は完成された。」と書いてある。けれど、どうして何も創らなかった7日目がセットになっているんだろうか。
よく思うけれど8日目は何したんだろうか。というか8日目以降にも何かをしたというのなら、7日目に何もしないで休んだとか休憩したとか言うのであれば7日目の意味もあるという気がするけれど、最後の日に何もしないというのが何だか妙な気がするし、何もしない日を一週間の中の一日に加えているのが不思議だなと思う。
しかしよく見ると神が天地を創造したあとただ休んだとは書いてなくて、神が安息したと書いてある。安息というのは「何の心配、苦痛もなく静かに休むこと」と書いてあった。
この創造物語はユダヤ人がバビロン捕囚をされていた時代、紀元前5,6世紀に、バビロニア今のイラクあたりに伝わっていた創造物語を参考にまとめられたらしいけれど、当時から休みとか安息とかいうことを大事に考えていたということなんだろうなと思う。
出エジプト20:8-11の十戒の中の安息日の規定は、
「20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
となっていて、奴隷も家畜も七日目には仕事をしてはならないなんて書いてあってすごいなと思う。
日本だとかつては庶民の休みは盆と正月だけだなんてことを聞くけれど、旧約聖書では一週間に一日休まないといけないとなっているが、この違いはいったんなんなんだろうか。当時から休むことの大事さを知っていたということなんだろうなと思う。
休ませせてあげよう
忙しくなるとしばらく何もしないで休みたいなんて思うけれど、でも実際にはなかなか休めないというのが本当のところなんではないかと思う。
やらないといけないことが溜まっていたり、心配なことがあったりすると何もしていなくても結局は休めていないなんてことになりがちだ。
イエスの招きの言葉がある。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)
重荷をなくしてやろうとは言わなかったけれど休ませてあげようと言っている。
私たちは苦しいことがあると、それを神に解決して欲しい、無くして欲しいと願って祈ることが多いんじゃないかと思う。けれども実際にはなかなかそうはならない。祈ったからと言って私たちの願いどおりにはなかなかならない。祈ったら、お金持ちになって、才能豊かになって、偉くなって、美人になって、イケメンになって、病気が治って、元気になって、みんなから褒められて、有名になって、、、そうしたら幸せに暮らせそうに思うけれども、そんな自分勝手な願いはなかなか叶わないみたいだ。自分の重荷も無くして欲しいと願うけれども、自分の重荷はやっぱり自分で負っていかないといけないらしい。いやでも自分は自分で生きていくしかないらしい。ずっと重荷を抱えて生きていくということは大変なことだ。
本当に大変なことがあると休もうと思ってもなかなか休めない。心配ごとがあるとゆっくり眠ることもできない。でもイエス・キリストはそんな私たちに休ませると言ってくれている。イエス・キリストはどうやって休ませてくれるのかよく分からない。しかしイエス・キリストは自分の所へ来れば休ませる、と言ってくれている。
心配をいっぱい抱えつつそこでイエス・キリストを見上げる、イエス・キリストの声を聞く、心配事を脇に置いて、そこから少し目を離し、少しの間手を離すことが出来るということかなとも思う。
そして休むことでまたその重荷を背負う力が湧いてくる、次の一歩を踏み出す力が出てくるということかなと思う。イエス・キリストは私たちの重荷を取り払うというような仕方ではなく、重荷を一時置いておいて休ませてくれる、そんな仕方で私たちを元気づけてくれるような気がしている。そして私たちが自分の力で生きていくように助けてくれるというか、後押しをしてくれているような気がしている。
お休み
そもそも礼拝とはそういう風にイエス・キリストのもとで休む、イエス・キリストの下で安息するということなのではないかと思う。毎日の生活での重荷、悩みや苦しみや嘆きや、そんなものを一時でも手を離しイエス・キリストの元でしばし休むということではないかと思う。私たちはそうやってまた新たな力を貰って、それぞれの重荷を負って生きていく。
イエス・キリストに目を注ぎ、イエス・キリストの言葉を聞く、聖書の言葉を聞く、普段の生活から一時離れて休む、それが本来の礼拝なんじゃないかなという気がする。うちの教会の礼拝がそうなっていればいいんだけれど。
ユダヤ教では律法で安息日には労働をしてはいけないということになっていて、それを徹底しているそうだ。エレベーターのボタンを押すことも労働になるそうで、安息日には自動で各階に止まるようになっているそうだ。あるいはハンカチを手に持っていくことは労働になるけれども手に巻き付けていれば労働ではない、というようなことを真面目に論議しているそうで、それに対してイエス・キリストも安息日だからと言って病気や怪我の治療をしないなんてのはおかしいと言っている。
でも人間はそれくらいでないとなかなか休めないのかもしれないなあと思う。実際には丸一日OFFにするのは大変だろうけれど、少しの間だけでも、自分の普段の生活とは別の時間、離れた時間を持つこと、いろんな悩みや不安やしんどさを一時でも手放す時間、重荷をちょっと肩から降ろす時間、それは人間にとってとても大事な時間なんだろうと思う。だから創造物語の七日目に神が安息した、その日を祝福し聖別したとなっているんだろうなと思う。聖別というのは分けて取っておくというような意味で、普段の生活とは別の時間として分けたということのようだ。
普段の生活をしばし離れて、いろんな思いをちょっと脇に置いて私といっしょにいなさい、イエス・キリストはそう言って私たちを招いておられるのだと思う。その招きに応えて一緒に憩う、それが礼拝なんだろうと思う。そこで私たちはいろんな思いや重荷を再び背負っていく新たな力、この一週間を生きていく力を得ていくのだ。