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礼拝メッセージより
一週間
一週間は7日間で、日曜月曜火曜水曜木曜金曜土曜の順番になっている。それがどうしてそうなっているかなんてことを考えるなんてことはなかった。
当たり前すぎてどうしてなのかなんて思いもしなかったし、どうしてかなんて別に考えなくてもいいとは思うけれども。いつだったか祈り会で創世記を読んでいたときに、注解書かなにかにそれは星に関係しているのだと書いてあって、そうなんだとびっくりした記憶がある。それをもう一回読んでみようと思って今回探したけれど、注解書を何冊か見たけれどそれらしいことを書いている注解書を見つけられないで、何に書いてあったのか分からないでいる。
仕方ないので微かな記憶を頼りにするしかないけれど、古代の人は恒星の中を不規則に動く星が地上にも影響を及ぼしていると考えていたそうだ。恒星というのは夜空に見える星座を構成するような動かない星のことだ。古代の人はは空の上に星座の絵というか幕というか、そんなのがあって同じ速さでぐるぐる回っているようなイメージだったんじゃないかと思う。
でもいつも同じに見える星座とは違う動きをする星がいくつかある。古くから知られていたのが、太陽と月と火星水星木星金星と土星だ。ちなみに太陽と月は単純に同じ速さで動いているように見えるけれど、火星水星木星金星土星は星座の中を前に行ったり後ろに下がったりするように見えるので惑星、惑わす星という名前がついている。というのを中学の時に読んだ本に書いてあった。
そういう星座を構成する星とは違う動きをする星が地上を支配しているというような考えがあって、太陽と月と、当時知られていた5つの惑星との合計7つから一週間は7日となっているようだ。曜日の名前も星にちなんだ名前になっている国も多いそうで、日本語でも日月火水木金土と星と同じ名前になっている。
古代は地球が丸い星であることさえもわかっていなかっただろうし、地球も他の惑星と同じように太陽のまわりを回っているなんて考えもしなかっただろう。地球自体が回っているなんてことも考えなかっただろうから天の星が回っていると思っていたのだろう。
現代では科学が発達して、星の動きもだいぶ分かってきて、星が自分達の運命に関わっているとか、星が自分達を支配しているなんてことを考えている人はあまりいないと思う。星の動きと自分の生活とは関係ないと思っているけれど、でもよく考えると結構関係しているんだなと思う。曜日の名前もそうだし、一ヶ月というのも大体月の満ち欠けの周期に合わせたようだし、そもそも何月という言い方も月を使ってるし。今でもそういう言い方が残っているんだなと思った。でもよく考えると、他の惑星の影響がどれくらいあるのかはよく分からないけれど、ぐるぐるまわりながら、そもそも1日の明け暮れからしても結局太陽の影響を受けているわけで、この宇宙の中に浮かんでぐるぐる回っている小さな地球の上で生きているんだなんてことを改めて考えている。
天地創造?
一週間という考えは古代バビロニアの時代からあったそうで、ユダヤ人もバビロン捕囚の時代にその影響を受けたのではないかと思う。創世記の天地創造が一週間というのもそういう影響があったんだろうなと思う。
そもそも天地がどうやってできたかなんてことは誰も見てないし誰も知らないだろう。勿論後から神に聞いたというのであれば話しは別だけれど。
創世記はバビロン捕囚の時代にまとめられたそうだけれど、創造神話というのは古代からいろいろあったようで、創世記もそういうのも参考にしつつ書かれたのだろうと思う。
古い時代に書かれているので当時の宇宙観を元にして書かれている。大空の上と下に水を分けたなんてのも、当時は雨というものが大空の上の水が落ちてくるということだと考えられていたということのようだ。
国が滅びバビロンに補囚されるという憂き目に遭い、一体どうしてこんなことになってしまったのかという反省の下に、自分達の歴史を振り返っていた、そのまとめが旧約聖書なのだと思う。何が間違ってこんな苦しいことになってしまっているのか、歴史を振り返っていく時に、行き着き先は天地創造ということになるんだろうなと思う。
初めて創世記を読んだ頃は、現場でそれを見ているかのような気持ちで、世界は創世記に書かれているとおりに創られて、その後も聖書の通りに時代が下って来たような気でいた。けれど本当はそんなことではなくて、天地創造もその場で見たかのように書かれているけれど、実際はバビロン捕囚の時代から一所懸命に昔を振り返って、すごく遠くから昔を振り返っておぼろげににしか見えていないのだろうと思う。
神
天地創造は実際にあったことを書いてあるのではなく、他の創造神話などを参考にしつつ、そこに伝えたい思いを含めて書かれているのだと思う。
古代では最初に言った太陽や月、惑星が神であるという考えも多かったようで、創造神話にもそういった類いの話しも多いようだ。実際私たちも太陽から莫大な恩恵を受けて生きていて、太陽を神のように考えるという気持ちも理解できる気がする。
でもこの聖書にあるようにユダヤ人たちは太陽も他の星も神とは考えていなくて、星たちも神が創ったと考えているようだ。
見えるものはすべて神が創ったものということのようだ。神は見えなくて見えるものの背後にいるというようなことなのかなと思う。
良しとされた
そしてこの中で「良しとされた」と言う言葉が繰り返されている。
そもそも神は良い世界を創ったと言っているようだ。良しとされた世界に自分達は創られた、そこに生まれて来たはずだったということなんだろう。
神は見えない、けれど見えないところから良い世界を創った、そして見えない所からこの世界を支えている、この神によって自分達も支えられている、そのことを伝えようとしているのかなと思う。
イエス
ユダヤ人は見えない神を探し求めてきたのだろう。しかし彼らは神のことをなかなか見つけられなかったようだ。
私たちに神を伝えてくれたのは結局はイエス・キリストだったということだと思う。