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礼拝メッセージより
徴税人
カフェルナウムは国境の町で、そこには通行人から通行税を取る収税所があったそうだ。そしてそこに徴税人がいた。徴税人は、当時この地方を支配していたローマ帝国に納める税金を集めていた。異邦人であるローマの手下として働いている徴税人をユダヤ人は嫌っていた。
ユダヤ人は異邦人について、彼らは地獄の釜にくべる燃料として生まれてきたと考えていたそうだ。だからユダヤ教のファリサイ派の律法学者たちは、異邦人と付き合うなんてことはほとんど考えられないとんでもないことだった。
そんな異邦人に支配されているということに対する鬱憤もあったのだろう、その支配者であるローマ帝国の手先になってローマに収める税金を集める徴税人を、ユダヤ人たちは神の民を裏切る極悪人と見ていたようだ。
ローマは税金を徴収するために、現地のユダヤ人の中から徴税人を立てていた。そして徴税人は先ず契約した請負額をローマに納め、その後に住民から徴収していたそうだけれど、その時に決まった額以上に徴収して自分の懐に入れるようなことがよくあったようだ。市民の持つかごや包みを強引に検査しては、自分の見当で税という名目をつけて取り立てるようなこともあったそうで、徴税人はいわば公然と強盗をしているようなものだったそうだ。
ユダヤ人たちは徴税人を罪人とみなし、遊女と同類の人間だと見ていた。親族の一人が徴税人になると、すべてが同じ仲間と見なされたという。
レビはどうしてそんな徴税人になったのだろうか。レビの人生はどんな人生だったのだろうか。レビとはユダヤ人としては由緒正しい名前である。アブラハムの孫であるヤコブの第3子として、祭司族の祖先となったレビに始まって、ルカによる福音書にあるイエスの系図にもその名を持つ者が二人いる。名前負けしていると言うことがあるが、ユダヤ人たちにとってはこのレビはまさに名前負けしている人という風に蔑みをもって見られていたのではないか。そしてそんなまわりの目に対抗するようにこのレビもその人たちを睨み返していたのかもしれないと思う。
でも恐らく好きでそんな仕事についたわけではなかったのだろう。まわりから白い目で見られる仕事を喜んで続けていたわけではなかったに違いない。ザアカイのように徴税人も頭にでもなれば、儲けは多いかも分からないが、下っ端のものはそれほど多い取り分でもなかったであろう。そんな生活に満足もしていなかったに違いない。食べていくためには何か仕事をしないといけない。けれどもまともな仕事口もなかなかない、きれいごとばかりでは生きていけない、そんな中で簡単に雇ってくれたのが徴税人だったということかもしれないと思う。恐らく喜んで徴税人になったわけではなかったのだろう。
そのレビの耳にもきっとイエスの噂は届いていたであろう。預言者か、あるいはメシヤかもしれない男が現れたというので、多くの群衆がついていっていたことも知っていたであろう。もしかしたらこのイエスが何かを変えてくれるかもしれないと思っていたかもしれない。多分そう思っていたんじゃないかと思う。そのイエスが自分の収税所の前を通りすぎていく。しかしレビは座ったままだった。自分を蔑む目で見ている群衆の中に入っていく勇気はなかったんだろうと思う。
応答
こんなレビにイエスは声を掛けた「わたしに従いなさい」。
レビはイエスの言葉に従った。イエスの呼びかけにレビは立ち上がった。
イエスの突然の呼びかけに対して、あるものは網をすて、あるものは父を残し、あるものは商売を捨てて従った。自分からは立ち上がれる力がない者、立ち上がる勇気がない者、立ち上がりたいけれどいろんなしがらみや不安や迷いから立ち上がれない者、そんな者たちを立ち上がらせる力がイエスの言葉にはあるようだ。自分の力というよりもイエスの招きによって、イエスの力によって立ち上がっていくのだ。
レビにとってイエスの言葉、イエスの招きが転機となった。イエスに呼びかけられたこと、そしてそれに応えてイエスに従うことが嬉しくて仕方なかったようだ。その現れがイエスを食事に招待したことだった。レビはイエスを食事に招待したが、イエスだけではなくイエスご一行様みんなを食事に招いたらしい。その食卓には多くの徴税人や罪人もその席についていたなんて書いてある。そんな人達をおおぜい招いて食事をしたのだ。
当時はよく客を招いての食事が、戸外や中庭や、見通しのきく屋上でなされたという。ファリサイ派の人達がこれを見て弟子たちに言う。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。ファリサイ派とは、聖書の律法を厳格に守ろうとする人たちだ。字面通りに守ろうとして時としてそのことから人を裁くこともある。そのためよくイエスとぶつかっている。
そんな彼らにとってイエスの行動はとても理解できないものだった。徴税人や罪人とつきあうこと、そんな汚れた者とつきあうことは自分自身も汚れると教えられていた。彼らのいう罪人とは端的に言うと旧約聖書の律法を守れない人のことだ。律法を守れない者は神の命令を守れない者、だからきよくされていない、汚れた者であると思っていたらしい。
つまり罪人とはいわば宗教的な失格者のことだ。仕事柄いちいち事細かな律法を守れない人がいた。そんな人たちが罪人とされていた。そして熱心なユダヤ教徒たちは、そんな律法を守れない人たち、完全でない傷のある人たち、病気の人たちを罪人だと言って、逆に自分達がいかに清く正しいかということを確認していたらしい。律法をきちんと守り、健康であり、傷のない自分達こそ義人であると思っていたのだろう。
罪人とされた者
イエスはファリサイ派の人から罪人とされている人達を招き、そのような人達といつも共にいたようだ。ファリサイ派が同じ席で食事をしてはいけないと非難したものたち、社会からのけものにされていた人達、徴税人や病気を持ってい人たちなど、さまざまな理由から罪人とされていた人達と共にいた。
罪人とされてまわりの者から疎外されていた、のけものにされていた、けがらわしいとされていた者たちと、イエスはいつもいっしょにいた。一緒に生きていた。
イエスは彼らと共に食事をする。イエスにとってはそれはごく当たり前の事だったのだろう。勇気をだして一緒に食べてたわけではなかったのだろう。イエスは食事だけではなく、日常の生活をも共にしていた。
ファリサイ派の人たちにはそんなイエスの行動が理解できなかった。彼らは汚れから離れることで自分たちをきよく保とうとしているような気がする。汚れることが神から離れてしまうことになると思っているだ。
けれどもイエスは、わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである、というのだ。
ここでいう罪人とは、罪を持っている者というよりも、罪人とされている者、罪人だと言われている人なのではないかと思う。神から罪を持っていると言われた人というよりも、まわりの者たちや社会から罪人と言われている人のことではないかという気がしている。結局罪人だとか汚れていると言って疎外し軽蔑し差別しているのは人間なのだと言われているような気がしている。
そしてお前たちが罪人として疎外している人を招くためにわたしは来たのだ、イエスはそう言っているような気がしている。
何が罪で何が罪じゃないとか、何が汚れで何が汚れでないとか、そんなことが問題なのではない、むしろあなたたちがお前は罪人だ、お前は汚れれていると言って差別し苦しめている、そのことこそが問題だ、私はそうやって苦しめられている人を招くために来たのだ、その人たちと共に生きる、イエスはそう言っているような気がしている。
レビは世間の冷たい目にさらされながら生きてきていたのだろうと思う。それが彼を苦しめていたんだろうと思う。レビがイエスの招きに応えてイエスに従ったのは、イエスの眼差しが暖かかったからではないかなという気がしてきた。自分を罪人として見る眼差しではなく、一人の人間として見る暖かい眼差しがあったから、その眼差しを感じたからレビは立ち上がったのではないかなと思う。
私たちもいろんな冷たい目に怯えながら生きているのではないかと思う。思い当たることがいっぱいあって、それをいつ責められるか、指摘されるか、どれほど冷たい目で見られるかと戦々恐々しているかもしれない。
しかしイエスはレビを見つめたと同じ暖かい眼差しで私たちを見つめているに違いないと思う。まわりからどれほど冷たい目で見られようとも、イエスは愛と憐れみと慈しみとその他諸々の暖かい、熱い眼差しで見つめてくれているに違いないと思う。その眼差しをしっかりと受けて生きたいと思う。