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礼拝メッセージより
屋根
数日後、カフェルナウムに戻って来たときの話しだ。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として招いたイエスは、カフェルナウムの会堂で話しをした後、シモンとアンデレの家に行き、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめをいやしたと書かれている。その時にも今日の箇所と同じように人々が病人や悪霊に取りつかれた者を連れてきて、1章33節には「町中の人が、戸口に集まった。」と書かれている。
シモンは後にペトロと呼ばれるようになるけれど、しゅうとめがいるということは結婚していたということのようだ。結婚していたのに仕事をやめてイエスについていったということか。
それはそうとして、その後イエスはガリラヤの他の町や村へ行き宣教をし、数日後またカフェルナウムに戻って来たところ、そのことが知れ渡って、また大勢の人が集まり、今度は戸口の辺りまですきまもないほどになったというわけだ。ということはこの家はシモンとアンデレの家ということかもしれない。
そしてイエスが御言葉を語っていると、そこへ4人の男が中風の人を床に寝ているまま運んできた。遅すぎたんだ。どうしようと思っただろうな。無理矢理人をかき分けて入っていこうか、それとも中の人が帰るのを待とうかなんて考えたんじゃないだろうか。しかし結局4人は屋根をはがして穴をあけ、そこから床をつりおろすことにした。
当時のユダヤ地方の家は、普通部屋がひとつだけだったそうだ。そして屋根は材木の梁と木の枝を編んだものと、粘土の覆いからなっていた四角い箱のような家だったそうだ。屋根というか屋上といった感じなのだろう。そして毎年秋には雨期になる前に修理をしないといけないということで、家の外には屋根に上がるための階段がついているものが多かったようだ。
多分この時の家にもそんな階段がついてあって、この4人の男たちは屋上に登り、粘土をはがし、木の枝を取り、穴を空けたようだ。床をおろす穴ということは相当大きな穴だ。「イエスがおられるあたり」の屋根を剥がしたのだから、当然かなりの量の粘土や木の枝やくずがイエスの頭に降ってきたことだろう。屋根からそんなのが降ってきたら、みんなそこからよけて、吊りおろすスペースができたんだろうなと思う。しかしどうやって降ろしたんだろう。ロープを持って来てたのだろうか。
それにしても人ん家の屋根に勝手に穴を空けるなんて、滅茶苦茶なやり方だ。イエスがみ言葉を語っていた最中にそんなことされたら、他の人達にとってはとても迷惑なことだっただろう。そこの家の人にとっては自分の家を壊されるというはなはだ迷惑な行為だったに違いない。
信仰
男たちはどんな気持ちでこんなことをしたのだろうか。何も書いてないので想像するしかないけれど、この男たちは一刻も早くイエスに会わせたいという思いがあったことは確かなようだ。イエスに会わせれば病気を治して貰えるという確信があったのかどうかわからない。イエスはキリストだから癒してくれるに違いない、なんていうような確信なんてきっと何もなかっただろうと思う。そもそもこの時イエスがキリストだ、救い主だなんて思っている人は誰もいなかっただろう。ただ不思議な力を持った人が現れた、その人に会えば何かが変わるかもしれない、少しでも楽にしてやりたいというような気持ちだったではないかと思う。
しかしここでイエスはこの人達の信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったと書いてある。
聖書にそう書いてあるからこの人たちにはイエスなら癒してくれる、治してくれるという揺るぎない信仰心があるのだろうと思っていた。
しかしある人の説教を読むと、この四人の行為は非常識な行為だと書いてあった。実際人の家の屋根を壊してしまうなんて非常識なことだし、迷惑な行為だし、今で言えば器物損壊罪か何かに当たるだろうと思う。
しかしイエスはその人たちの信仰を見たと書いてある。ここに信仰はあるんだろうか。イエスがキリストだ、救い主だというような信仰はなかったと思う。奇跡的に病気を治す人が現れたということを聞き、この人なら治してくれるかもしれないという位の気持ちだったのではないかと思う。そういう面ではイエスに対する揺るぎない信仰というようなものはなかったんじゃないかと思う。
ただ中風の人を治してやりたい、その可能性があるならばどこへだって連れて行ってやりたい、そんな強い思いはあったようだ。だからこそ非常識なことをしてでもそこへ連れて行ったのだろう。
罪
イエスの中風の人への言葉は「子よ、あなたの罪は赦される」というものだった。突然、何を言いだすのかといった感じがする。これを聞いた律法学者が「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言ったと書かれている。
当時病気は罪の結果であると考えられていた。罪そのものは勿論見えないけれど、病気であるということは罪があるということの証拠と考えられていたそうだ。
中風の人を連れて来た人達の思いは病気を治して貰うこと、少しでも楽にしてもらうことだったのだろうと思う。しかしイエスの第一声はあなたの罪は赦されるというものだった。その後で起き上がれと言って病気を癒した。
イエスは罪は赦されると言うのと起きて床を担いで歩けと言うのとどちらが易しいかなんて言っているがどっちが易しいのは未だにわからない。
病気は罪の結果であるということからすると病気と罪は同じことがら、コインの表と裏のようなもののような気がする。罪が赦されれば病気は治り、病気が治れば罪がなくなったということになる。もしそうであるならば罪が赦されるということと起きろということと改めて二つ言う必要もないようにも思う。
しかし病気が罪の結果だとすると、病気になった人は罪を持っていると見られていたということになる。病気の苦しみと同時に、まわりから罪人であると見られるという苦しみの両方があったということなんだろうと思う。
罪が赦されると言うことと、起き上がれということと両方言ったのは、どちらの苦しみからも解放するということだったのかなと思う。
そして罪が赦されると言うことを最初に言ったのは、病を癒すと言うことよりも、罪を赦すことこそがイエスの一番の使命だからかなと思う。
1章38節に「イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と語っている。
罪が赦されるということは、要するに神との関係を回復するということだと思う。神との繋がりが絶たれた状態から、その繋がりを取り戻すということだと思う。その繋がりを取り戻すことこそがイエスの目的だったのだと思う。
イエスはその生涯にわたって、あなたの罪は赦されていると告げている。あなたは愛されていると告げている。
律法を守れなかったり病気になったり悪霊に取りつかれたようになったりして罪人だと言われ、自分でも罪人だと思っている人に向かって、イエスはあなたはもう赦されていると語ってきた。そのままのお前を神は愛しているのだ、大事に思っているのだ、そう語ってきた。だから神に赦されている者として、神に愛されている者として生きなさい、そして互いに愛し合って行きなさい、イエスはそのことを私たちに伝えにきてくれたように思う。
4人の男は中風の人を助けてやりたいという強い思いを持っていた。どうしてそこまで思っていたのか、どういう関係だったのかは分からない。けれども4人と中風の人の間には互いを愛し合う気持ちというか大切に思う気持ちがあったようだ。非常識なこと迷惑なことをしてさえもどうにかしてやりたいという強い思いを持っていた。そしてそんな風に相手のことを大切にすること、それはまさに神の御心に沿うことであるということだろうと思う。
大切に思うこと
12章28節以下で、律法学者に一番大事な掟を聞かれたイエスは、あなたの神である主を愛しなさいということと、隣人を自分のように愛しなさいの二つであると答えている。
信仰というのも神を愛することと隣人を愛することということなのかなと思う。信仰というと神に信じることと同時に隣人を愛することも信仰なのかもしれないという気がしている。隣人を大切にすること、大切に思うこと、それも信仰なのではないかという気がしている。
だからイエスは男たちの信仰を見たと書かれているのではないだろうか。
ところでこの後屋根はどうなったのだろうか。5人の男たちが修理に来てたら面白いな。